2077年6月、明也はバルセロナの浜辺で地中海を眺めていた。浜辺は人もまばらでとても静かだ。気の早い人が海に入っている。海水浴をするには少し早い気がするが、海に入った当人には問題ないのだろう。地元ではなく、外国から来た人の様だ。海から来る潮の香り、懐かしい香りが明也の全身に染み込んでいた。
矢野明也デビューシーズンはあっという間に過ぎていた。明也が、そしてアーセナルがチャンピオンズリーグファイナルを戦ったのは一週間前のこと。矢野明也を中心とするヤングアーセナルは、激しかったタイトルレースを締めくくる圧倒的なパフォーマンスによって、昨年王者レアル・マドリーを5−0で粉砕していた。スコアだけでなく、内容はチャンピオンズリーグファイナルの歴史の中で過去に例がないほどの大差になった。レアル・マドリーは予選ラウンドの借りを返すべくなりふり構わぬ強圧的フットボールを展開してアーセナルに襲いかかったのは開始5分までだった。矢野明也の6人抜きゴールによって、マドリーは崩壊してしまった。ここ数年バロンドールを分け合ったロランドとフランチェスタが沈黙から抜け出せない空間をアーセナルは作り、矢野明也が躍動する空間だけがつくられていた。
プレミアリーグ、FAカップそしてチャンピオンズリーグの主要タイトルをアーセナルは独占した。グーナーが待ち望んだ3冠達成だった。そして、グーナーが長く待ち望んだリオン・ファントマ時代の再現と言う夢が現実になった。歓喜に包まれたハイベリーストリート、グーナーズスクエアは、アーセナルの選手を讃える声で溢れ、お祭り騒ぎが続いた。優勝パレードが最大のピークとなり、アーセナルスクエアからハイベリーまでの沿道を埋めたファンは百万人を超えていた。アーセナルスクエアやグーナーズハウスは連日ファンと報道陣に取り囲まれ大変な騒ぎだった。
パレードが終わると矢野明也は1人ロンドンを離れバルセロナに来ていた。U17ワールドカップがスペインで開催されるからだ。開幕まで1週間あるが、日本代表がもうすぐバルセロナにやって来る。日本代表が到着すれば、日本の報道陣もやって来るだろう。矢野明也を見つけた報道陣は、どんな動きをするだろう。明也はプロデビューする前もデビューした後もアーセナルにガードされて来た。代表招集も避けてきたことで日本国内の評判が決して良いとは言えなかった。特に報道陣が伝えるのは稀に見る凄い選手だということだけ。自国の選手としてでは無く、他国の選手として扱うだけだった。
明也は、地中海から吹いてくる海風に包まれ、幕を閉じたデビューシーズンを思い出していた。アーセナルのチャンピオンズリーグ、プレミアリーグ、FAカップの3冠獲得に最後まで抵抗したのは、マンチェスターシティだった。チャンピオンズリーグセミファイナルは、今シーズンのベストマッチと呼ばれたホームアンドアウェーの210分だった。
明也を中心とするヤングアーセナルがボールを保持した時間とマンチェスターシティがその代名詞となった伝統のポゼッションスタイルでボールを保持した時間は、ほぼ同じ。フットボールと言うよりもハンドボールのゲームを見ている様な感覚を持った。ボールと選手が連動したフットボールは、ピッチを異次元の空間に変えた。シティ・オブ・マンチェスターでは少しだけシティが優位に立った。2人目3人目の動きを予測し対応を繰り返す展開は、両チームに2度の決定機を与えた。その決定機を決めたシティと一回GKゴードン・ファンクスのスーパーセーブで止められたアーセナルという結果だった。セカンドレグ、ハイベリーは、逆にアーセナルが2回決めてシティが1回決めた90分。アグリゲート3−3の延長戦。先にスコアを動かしたのはシティだった。アーセナルは絶体絶命のピンチ。残り15分で3点が必要になった。明也は、この後の事が思い出せなかった。後から映像を見ても3点を奪ったプレーが自分のことだと思えない。ハイベリーの大歓声だけが明也の記憶を支配しているだけだった。
プレミアリーグのシティ戦、シティ・オブ・マンチェスターは、チャンピオンズリーグを凝縮していた。だが、シティはミスとアンラッキーが重なりアディショナルタイムに同点ゴールを献上して万事窮す。アーセナルの胴上げを見ることになった。FAカップファイナルも結果はシティに冷たいものだった。120分の拮抗したゲームの最後にシティの危機察知レーダーは矢野明也をロストしてしまった。
アーセナルの3冠は、まさに神がかりだったが、全てが必然だった。明也は自分自身のプレーを自覚も意識することなく、ただ覚醒だけが進んでいた。そんな明也は、ただぼんやりバルセロナの地で海風に包まれていた。和、仁、良に再会する時のことに気持ちが支配されていた。5年ぶりの再会は、どうなるのかどこか不安だった。
U17ワールドカップの日本戦が、エスパニョールのホームスタジアム、コルネジャで行われる。
「カンプノウじゃないんだな」明也は、カンプノウに入れないことを残念に思った。なぜなら、予選リーグのイングランド対アルゼンチン戦はカンプノウで行われる。ケヴィンから届いたチケットはカンプノウの最前列だった。
日本代表の対戦相手は、アフリカチャンピオンのナイジェリアだった。選手の知名度は低いが、これからヨーロッパの強豪チームにやって来る選手ばかりだろう。特にナイジェリア選手の身体能力はこの年代で世界最高クラスの選手を並べる強豪国だ。日本メディアの記事は、自国チームの真の長所を伝えることは無い。相手の長所ばかり伝えている。
「良の良さなんてわからないのかな」明也は5年前の記憶しかなかったが、良の凄さを感じていた。「良が切れたらナイジェリアだって問題にしないだろうな」ひいきと希望もあったが、明也はそんな思いが強かった。ゲームが始まれば答えは出る。代表のユニフォームを着た、和、仁、良が凄い選手だと世界が知るだろう。そうなってくれたら嬉しい、そうなると一人確信していた。
世界のフットボールファンが追いかける矢野明也は、誰に気づかれることもなく、1人地中海を眺めていた。
続く