中盤のスペースにボールが転がる。イーブンボールだ。両チームのプレーヤーがボールを追い始める。だが、イーブンボールでは無かった。ジャックの死角から突然現れてボールを押さえたのは、明也だった。ジャックが慌ててマークに付く。「突破されてしまう」そう感じたジャックは、手を伸ばして明也のウエアを掴んで止めようとした。ジャックは掴んだと思った明也のウエアを引っ張った。「軽いな日本人!」そう言ったジャックの声が聞こえた。明也のウエアを触っていたが、引っ張ったのは空気。軽い訳だ。「ジャック、ダンスの練習か?」周りから野次が飛ぶ。明也のウエアを掴もうとして手を伸ばしたジャックは、空振りして回転している。明也は、既に次のマークもただすれ違う様に抜いていた。
「ボーイ、今度は手抜き無しで行くぞ、」そんな声が聞こえた。相手チームは、8人のプレーヤーが、マッチアップで明也を止める準備をしている。「13才の少年相手に大袈裟な」明也のチームから声がかかる。マンツーマンのマッチアップで負けることはフットボーラーに取って沽券にかかわる重要なものだ。例えそれが子供相手だろうと同じこと。スパーズのサポーター達は、スパーズのゲームだろうと自分の草フットボールだろうとなんら変わらない。それがスパーズ魂。
マッチアップが始まって、ピッチのプレーヤーは、幻を捕まえようとしたのだろうか。彼らの目に映っていたものはなんだったんだろう。マッチアップを準備した8人は、明也が通過する度に滑っては倒れる。ボールを奪うどころか、カラダに触れることすら出来ない。プレーヤーの顔は驚きに包まれている。ゴールキーパーは前回の轍を踏まないように真剣に明也を見ていた。抜け出す瞬間にチャンスがあるはずだとそこに焦点を合わせていた。最後のディフェンスが抜かれた。ペナルティーエリアに入った。ゴールキーパーはボールと明也を纏めて止める勢いでセーブに行こうとしたが、「どこに行った!」キーパーが叫んだ。明也はキーパーをすり抜けていた。明也のボールをゴールに流し込む姿が、皆の視界に映し出された。
「なぜ、ファントマが来てるんだ」ピッチの外でゲームを見ていた老人が呟いた。「爺さん、何言ってるんだ。ファントマって誰だ」「リオン・ファントマを知らんとは、お前はまだガキだな」「あの白いウエアを着たのは、リオン・ファントマだろ。ヤツは名前の通り幻になる技を使いやがる。ヤツのお陰でスパーズは何度も煮え湯を飲まされたんだ」「リオン・ファントマがデビューしたのは、ヤツがまだ17の時だった。スパーズがプレミア初優勝目前の最終戦でヤツが現れた。イリュージョンだ、幻だとガナーズの馬鹿野郎どもが騒いだ技でファントマに3発食らって終わり、事もあろうにプレミアの優勝をガナーズに持って行かれた。ハートレーンでだ。30年以上経った今でも思い出したく無いゲームだ。そんなガナーズの悪魔野郎が、なぜここにいる。追い払え」
「爺さん、リオン・ファントマのことはよく分からんが、ガナーズのマネージャーのことだろ。随分前に引退した。あの白いウエアを着ているのは、日本人の少年だ。今日ロンドンに来たヤツだ」「何だと!だが、さっきのプレーは、リオン・ファントマがやった『消えるドリブルだ』日本人の子供が出来る技じゃないぞ」「とんでもないヤツがまた出てきやがった」「だがなぜ奴はここでフットボールをしてやがる。スパーズに入るつもりか?」「まだだったら、直ぐにスパーズに入れなきゃ駄目だ」「ガナーズにでも取られたら取り返しがつかんぞ」「俺が今からスパーズに行って入団するように掛け合ってくるから、ヤツが何処にも行かんように見てろよ」そう言って老人は、スパーズのクラブハウスに向かって歩いて行った。
ピッチの外でそんなやりとりがあったが、ピッチでは、矢野明也3点目のゴールが決まりゲームは決まっていた。明也は自ら交代の合図をしてピッチに挨拶すると自転車に方に走って行った。「ボーイ、名前を教えてくれ、また来いよ」ピッチの中から声がかかった。明也は、辿々しい英語で「名前はいいから」と言って自転車で走り出した。さっき老人と話していた人がピッチの反対側から叫んでいる。明也に聞こえたのか分からないが、明也は南に向かってスピードを上げた。
(続く)