ウィッシャーの離脱は、アーセナルBを深刻な状態にさせるはずだった。しかし、矢野明也が帰ってきた。明也の心を覆った不安が、明也を迷路に導いていた。体はどこも悪くないのに体が動かなかった。
どんなに凄い技術でも、心が整っていなければ役に立たない。「心・技・体」使い古されて、忘れそうな言葉が示す3つの要素が揃わなければ戦うことが出来ない。技と体は史上稀なる才能を持った矢野明也であっても心が揃わなければ並以下になってしまう。だが、シーズン前の時期に過剰な注目や無茶な要求を受けなかったことが「消耗」というマイナス作用とならなかった。フィジカルコンディションはプラスに作用していた。
チームとしてアーセナルBは、ウィッシャーの離脱によって重い空気が流れた。チームの主力であり、トップでの活躍を期待されていたウィッシャーの離脱がもたらす状況は、マイナス以外考え難い。そんなアーセナルBでもノッティンガムフォレスト戦で起きた明也コールのことが話題になった。
「明也はあれを聞いただろうか?ゲームに出てない奴をコールするのはおかしいだろ。クラブが何も公表していないからだ」「ところで、明也は今日来ているのか?」
アーセナルBのメンバーは、明也不在の中で起こった明也コールに良い印象は持っていなかった。ガナーズの魂は、どんな時であっても、どんな理由であろうと心が折れないことで発揮される。フットボールは、戦う心がなければ出来ない。U−17の絶対エースだろうが、リオン・ファントマの再来だろうが、それは同じだ。明也はプロとしてまだ何も成し遂げていない。その段階になっていない。だからヴェンゲルスタジアムで起きた明也コールにアーセナルBのメンバーは納得出来なかった。明也を待っているグーナーに応える姿を見せるべきだ。それが、アーセナルBメンバーの思いだった。
「明也は、絶対帰って来ますよ」そう言ったのは、ケヴィン・クランツだった。ケヴィンはアーセナルBに昇格していた。「ケヴィン、本当にそう思うのか?」「アーセナルBに合流してからの矢野明也は、いるのか、いないのかわからない存在だったぞ」「これが、ガナーズが期待するリオン・ファントマの再来か?」「あれは、とてもプロのレベルじゃ無かったよ」「お前もあの矢野明也を見れば、俺たちの言ってる事がわかるよ」
ケヴィンは、固まって返す言葉が無かった。沈黙がアーセナルBを覆った。
「おい、ケヴィン、練習行くぞ」メンバーから声がかかった。アーセナルBのメンバーが練習ピッチに向かうと、既にスクエアのピッチには人影があった。そしてその人影があったピッチの中央、センターサークルのラインが引かれた付近を凝視するヴィオラの姿もあった。そのピッチ中央の選手がボールを蹴る姿はアーセナルBのメンバーを驚かせた。そして目の前で演じられているプレーに自分達の目を疑った。
ボールを蹴っているのは、矢野明也だった。
高く飛び出したボールは、2人が蹴っているように見えた。矢野明也は、1人で自分の蹴ったボールの落下点に走り、胸でトラップするとボールをピッチに落とさず空中に蹴り上げている。矢野明也はセンターサークルの対面側にボールを蹴り上げ、ボールが落下する場所に20m位移動している。瞬間移動のようだった。移動した場所に必ずボールが落ちて来る。矢野明也はボールの落下点を少しずつ動かして、正確にサークルに沿って回っている。ボールがピッチにつくことはなかった。
「今、見えているのは、CGか?」「あれは何か仕掛けがあるのか?ケヴィンは知ってるか?」誰かがそう聞くと。ケヴィンは「明也が帰ってきた」そう叫んでピッチに飛び出していった。「明也ー!」
ケヴィンが近づくと、明也は、トラップ&ハイボールからハイボールリフティングに切り替えてケヴィンから逃げて行く。明也の動きにケヴィンがついていけない。「待てよ、明也ー」明也は止まらない。ケヴィンが諦めたようにスピードを落とすと、ピッチの外から声が飛ぶ。「ケヴィン、もう終わりか?U−17に戻すぞ」ヴィオラの声だった。
(続く)