明也コールをするグーナー達は、矢野明也本人がすぐ傍にいることを知らなかった。
「なあ、にいちゃん。矢野明也はグーナーから愛されているだろ。矢野明也はグーナーの夢と希望を背負っているからなんだよ」となりのおじさんがそう言って明也の方を向くと席は無人だった。席の下には明也が持っていたチケットが落ちていた。「あの日本人のにいちゃんはチケットを落として行きやがった。これを持ってないと席に戻って来られないぞ」そんなことをつぶやきながらおじさんはチケットを拾った。当日券以外はチケットに名前が記載されている。「チケットには名前が書いてあったな。なんて名前か見てやるか」おじさんは、名前を見て驚いた。
拮抗したフォレスト戦は、後半30分を過ぎて激しいボールの奪い合いから消耗戦になっていた。依然スコアレスが続いている。スタンド最上階で始まった明也コールは、ガナーズの勝利を願うグーナー達に伝わってヴェンゲルスタジアム全体に広がっていた。
ベンチのヴィオラは、突然湧き上がった明也コールに不思議な感覚を持った。矢野明也の状態は表に出してない。とてもゲームに出場出来るレベルに無いことや最悪選手生命すら危ういかもしれないことは隠されている。それでもグーナー達は、矢野明也を見たいと思っている。「明也、今何してる?グーナー達の声が聞こえているか?みんながお前を待っているぞ」ヴィオラが呟いた。ゲームは、90分間両軍の攻撃的な守備合戦が続きスコアレスのままタイムアップとなった。
アーセナルがホームでなんとか負けずに済んだゲームだった。ウィッシャーを失い、次戦以降の不安が大きくなってしまったアーセナル。リーズU戦後にヴィオラの持った悪い感覚が、ウィッシャーの負傷退場という最悪の現実になってしまった。
翌日、アーセナルは、ウィッシャーが両足の靭帯断裂という重傷を負い、選手登録を抹消したことを発表した。ウィッシャーは、今シーズン中の復帰が絶望となった。
シーズン開始直後の出来事によって、アーセナルBの戦力低下が懸念された。矢野明也は依然出場の目処が立っていない。ヴィオラのもとにリオン・ファントマから追加登録選手の打診が入った。レターには、「ケヴィン・クランツをBに昇格」という提案が書かれていた。
ウィッシャーの登録抹消が発表された当日、アーセナルBはゲーム翌日ということで練習が休み。アーセナルスクエアは、ユース以下の練習も休みだったので、人影少なくひっそりしていた。時折、グランドキーパースタッフがピッチを点検していた。
天然芝が1面、ハイブリッドが2面、人工芝が1面あるアーセナルスクエア。人工芝のエリアは、一般に貸し出されるエリアだが、この日は、貸し出し予定もなかった。
ハイブリッドBと呼ばれるエリアに人影があった。
クラブハウスからも観戦エリアからも遠いハイブリッドBは、非公開練習エリアでもあった。栗毛色の髪は短く、アーセナルのNo.28と刺繍されたトレーニングシャツとパンツを着た選手がボールリフティングをしていた。ボールは次第に高くなり、5m程まで上がって選手の足に返って来る。選手は別の動きを入れながらハイボールのリフティングを続けている。「九里ケ浜なら風がもっと強く吹いているから、ライジングサンでやるより簡単だな」ボールの上がる高さは10m以上になっていた。ボールと遊んでいたのは矢野明也だった。髪を短く切った矢野明也は、別人のようだった。矢野明也の変調から3ヶ月が経っていた。
祖父の話とヴェンゲルスタジアムで隣の席に座っていたおじさんの話は、矢野明也を迷宮から脱出させたようだ。明也の表情が変わった。以前のような澄んだ瞳は力を漲らせていた。