76-77イングリッシュプレミアリーグ、遂に5年振りの首位に立ったアーセナルは、その後の年をまたぐ厳しいリーグ戦の日程を全勝で乗り切った。
レアル・マドリーを連破した時から、2ヶ月の間にアーセナルのメンバーは、日々進化を遂げていた。スターティングメンバーがヤングアーセナルに変貌していたのだ。矢野明也の加入によって覚醒したアカデミー出身の20歳前後の選手ばかりになっていた。平均年齢20歳。シーズン開始当初、トップチームのスターティングメンバーに名を連ねたベテラン達は、ヤングアーセナルのバックアッパーに変わっていた。
上手い選手がいるとその選手に刺激されて、他の選手の技術レベルは格別な成長を遂げることがある。今、アーセナルはそれが明白になってきた。下の時代、12歳の矢野明也がU-13カテゴリーに入った時から、今のヤングアーセナルのメンバーは、目の前で明也のプレーを見て来た。グーナーズハウスで一緒に生活していた。
ヤングアーセナルのメンバーは、はじめのうち矢野明也という日本人の少年を懐疑的な目で見て、冷たかった。皆がアンヘル・ジアブロをアーセナルの未来だと感じていた。アーセナルを退団するまで冷たかった選手も多い。が、その選手達は誰も昇格出来なかったことも歴史が証明している。矢野明也の能力を素直に認められずに、妬みや恨みにも似た邪な心がフットボールプレーヤーとしての成長を妨げてしまった。出て行った少年達は、若さ故の心の未熟さ、若さゆえの過ちに後々気付くかもしれない。だが、この少年達は、矢野明也を認められず、自らも知らず知らず負の成長サイクルに陥った。逆に矢野明也を理解出来た選手は、その理解した時期が早いほど成長も早かった。
同年代のケヴィン・クランツが最も早く明也を理解出来た。アンヘル・ジアブロとプレーしていたケヴィンが、明也を理解出来たのは、アンヘルに対する愛情や友情を超えたところでフットボールを見ることが出来たからだろう。天才のことは天才にしか理解出来ない。ケヴィンはアンヘルのことが大好きだった。アンヘルが天才中の天才だと感じていた。しかし、明也に会って、それが間違っていると直ぐにわかった。明也と一緒にプレーしたら、これまで見たことのない世界が目の前にあった。明也の作った世界が、ケヴィンの目の前で起きていることが現実世界のものと思えなかった。明也は「上手い」「速い」「凄い」と表現されるプレーを遥かに超えていた。「魔法」「信じられない」そんな言葉でしか表現出来なかった。
異次元と表現されるプレーがある。普通の人には見えないはずの異次元世界を矢野明也は現実世界に映し出した。過去に例があるから言葉にできる。「Phantom through」はリオン・ファントマが一瞬のスピードアップによって相手を抜き去る技だった。矢野明也がやったPhantom throughは、人をすり抜けたと見えるほどスピード差があった。水中を動く人と地上を高速移動する人がフットボールをしたらこんな差になるだろう。見ている人達が水中でするフットボールしか見たことがないとすれば、それをどんな言葉で語るだろう。「神が現れた」?「悪魔が来た」?過去に例のないプレーを表現する言葉が現実に追いつかない筈だ。
アーセナルアカデミーはケヴィンに続くように矢野明也の理解者が増えていった。結果から見たら、矢野明也を理解して努力した選手だけがトップに上がったのだ。今その選手達が、トップチームのスターティングメンバーに名を連ねた。
1月の坂と呼ばれ、成績が降下していく現象がある。チャンピオンズリーグを獲り、クラブワールドカップを獲るとチャンピオンチームは下降期を迎える。これは毎年目にする光景だ。レアル・マドリーですら、毎年この時期になると足元をすくわれるゲームがある。プレミアにおいても、クリスマスチャンピオンが最終節を終わって順位表の最上位にいることの方が少ない。
矢野明也をシーズン途中からトップデビューさせて、チームとしても勢いのある若手に刷新されたアーセナルに死角はないのだろうか。若い未熟なチームながら、勢いに乗ったヤングアーセナルに怖いものは無いだろう。今のチーム事情は、そんな状況だ。
アーセナルに死角があるとすれば、矢野明也の怪我による離脱だけだろう。それでもプレミアリーグにおいてアウェーゲームの難しさは他国リーグの比ではない。下位チームがホームゲームで上位チームを打ち負かす。アーセナルが有力チームと残しているアウェーゲームは、ユナイテッドとチェルシーだけだが、上位チームにとっては、下位チームとやる方がやりにくい。アーセナルもそうだろう。2月のFIFAウィーク前にあるストーク戦は、今後の試金石になるはずだ。ストークは、ブリタニアスタジアムでならば、チェルシーだろうとレアル・マドリーだろうと苦しめる。
長いリーグ戦、タイトルレースはこれからが本当の勝負になる。ヤングアーセナルは追われる立場の苦しさも経験する筈だ。
ストークVSアーセナル。いつからだろうか、アーセナルはブリタニアスタジアムでの成績が思わしくない。5年以上勝点がない。ストークは、ホームゲームで無類の強さを発揮するが、取り分け、アーセナルに対してそれが顕著になる。2077年2月最初の日曜日。雪のチラつくブリタニアスタジアム。アーセナルのスターティングメンバーは、ヤングアーセナル。このゲームで初めて、明也とケヴィンが同時にスターティングメンバーに名を連ねた。アーセナル中盤のバランサーであるイングランド代表、チームキャプテン、アラン・サンチェスが足首の違和感によって、ベンチにも入らなかったからだ。遂にアーセナルの平均年齢は20歳を切った。
ブリタニアスタジアムのスタンドは、予想されたメンバー発表だったが、アーセナルにプレッシャーをかける意図から、凄まじいブーイングだった。アウェーチームが、恐ろしくなると言われるストークの大音響の応援は、ヤングアーセナルにとって初めての経験だった。ヤングアーセナルのメンバーが、硬い表情で入場する中、1人矢野明也だけが、いつもと同じ様に明るい微笑みを浮かべていた。
「明也はこの雰囲気に何にも感じないの」明也の後ろを続くケヴィンが聞いた。
「ブリタニアスタジアムが応援してくれてる雰囲気に?」
「明也の神経は理解出来ないよ。聞くんじゃなかった」
ケヴィンはいつもと変わらない明也に驚きながらも安心出来た。
アウェーの雰囲気は、明也にとってずっと子守唄だった。6歳の頃から、アウェーではブーイングしかなかった。ホームでも初めはブーイングを受けた。そんな環境に放り込まれて、10年が経った。
「これがいつも目の前で起きる状態だったからね」
明也は独り言の様に呟いた。
ゲーム開始からストークのフットボールは、誰もが知っているキックボールだった。ボールを持ったら、アーセナル陣のスペースに蹴り込んでいた。ボールが空中にいる時間を計ったらストークを超えるチームは無いだろう。フットボールの実際のプレー時間、インプレーの時間は60分に満たない。だからフットボールの90分ゲームは30分以上プレーが止まっている時間だ。ところが、ストークのゲームは50分程度しかない。スローインやプレースキックにかける時間をレフリーがカードを出す限界一歩手前まで使うからだ。アウトオブボールポゼッションと呼ばれるストークスタイル。フットボールと呼ぶには異質なスタイルをストークは続けてきた。流れる様なパス回しからのゴールをストークシティでは誰も期待していない。それはフットボールじゃない。軟弱なボールゲームのやり方だよ。ストークにおける現代フットボールは遠い過去から変わっていない。フットボールの解釈そのものが違っている。スローインやセットプレーからのゴール、これがストークスタイルだ。
そんなストークと初めて対戦した明也は、少し戸惑いながらも、キックの精度やスローインの飛距離と精度に驚いた。自陣ゴール前に飛んでくるボールがワンアクセントでゴールマウスに向かう。スローインで入るボールは、蹴ったボールと変わらない。スローインはオフサイドがない。だから、ストーク陣からのスローインは、相手チームを慌てさせ危うくする。ヤングアーセナルは事前に説明を受けて対策を立てていたが、説明以上の迫力に後手を取る場面が続いてしまう。
アーセナルが地上を繋いでストーク陣に突入するとペナルティーエリア前に並んだストーク選手がアーセナルを跳ね返す。ストークの守備はシンプルに弾き返す事しかやらない。フェイクや切り返しにかからない。ただボールだけを狙って弾き返す。はじき返されたボールはルーズボールとなって空中遊泳を続け、ストークに渡る。ストーク地方に住むフットボールの神様は、アーセナルが嫌いな様だ。今、世界の注目がヤングアーセナルに集まっている。だが、ストーク地方の神様はそんなこと意に介さない。アーセナルをフットボールと呼ぶには異質な競技の迷路に閉じ込められようとしていた。
この状況を変えるのは明也しかいないだろ。当然の様にヤングアーセナルのメンバーは明也を探す。明也もボールの出どころ落ちどころを予測して動いているが、2人の選手が明也を挟み込み動きを封じている。ストークは数的不利が生まれるよりも矢野明也に自由にプレーされるリスクを消そうとしている。元々ストークに数的優位を作って戦うという発想そのものが無い。矢野明也ならば3人が囲むくらいのことも平気でやる。そしてフットボール=キックボールを続ける。絶滅した筈のオールドイングランドスタイルがしっかり生きている。ストークサポーターはこれ以外のスタイルを認めない。明也は、この状況に手を焼いている。
ケヴィンがボールの落ちどころに入って弾き返す事しかできない。ヤングアーセナルは完全にストークの術中にはまってしまった。
ルーズボール際の競り合い、セットプレーよりも始末の悪いスローイン。アーセナルは慣れない受け身の展開を変えられないまま、前半をスコアレスで終わる。アーセナルにはスコアレスでよかった。ストークは、スコアレスを悔やむ前半だった。首位に立つアーセナルを追い込んだ展開にブリタニアスタジアムの盛り上がりは最高潮に達していた。
明也は、ストークのフットボールを知っていたが、実際に体験してみると簡単ではないことがわかった。しかも前半唯一の決定機にミスキックしたことを少し引きずっていた。そんな中で「明也でもあんなミスするのを見て、なんか、ホットしたよ」ケヴィンの言葉に明也の目が変わった。「ケヴィンが明也を怒らせたぞ」周りが騒ぎ出す。アーセナルは劣勢でも明るかった。指示を出すジル・キャンベルの声が弱々しく聞こえる程、答える選手の声が大きかった。
後半が始まる。ストークのスタイルは変わらない。
「we are the number one 」をブリタニアスタジアムが歌っている。
アーセナルは、後半になるとボールを受けてから前に急がなくなった。ドリブルで進むとパスをマイナスに出す。ラグビーの様だ。ストークは前に来ないアーセナルに陣形を崩しかける。それでも矢野明也につけたマークは変えない。アーセナル前半唯一の決定機は、ストークの肝を冷やした。だからそれ以来明也への注意をずっと怠らない。
そして、ブリタニアスタジアムの声援がゴールを期待する声に代わる。それから、ストークは前に出る様になった。
フットボールはゴールをあげることでしか勝利を掴めない。ストークの攻撃に慣れてきたアーセナルの対応にホームのストークが焦れてきた様だ。ボールを持たせたら、アーセナルは一流以上だ。ヤングアーセナルだろうとそれは変わらない。これまでほとんどなかったストークに隙が出始めた。明也は常にボールと逆のサイドにポジションをとった。ボールサイドは、アーセナルの数的優位が出来るのでチャンスの気配が出て来た。
そして、後半30分まで続いたスコアレスに終止符がうたれた。
明也の動きにつられ過ぎたマーカーが6人まで増え、ストーク守備網は穴がどこからも分かるようになった。ブリタニアスタジアムが悲鳴を上げる。
明也と逆サイドから出たクロス気味のスルーパスにアーセナルセンターフォワード、ティエミー・ヘンリが反応してストークのゴールがボールを飲み込んだ。均衡が崩れる。矢野明也の動きにストークディフェンダーは引き付けられすぎた。磁石に吸い付けられる鉄のピンだった。
「ナイスゴール、ティエミー!」アーセナルメンバーが駆け寄ってゴールを称えている。ブリタニアスタジアムにわき起こったブーイングは、誰に向けられたものだったのかわからない。ブーイングが収まらないままゲーム再開。ストークは、スタイルを変えずにロングボールを蹴りこんでくる。失点は、ストークに力を与えたと思わせるほど激しいものになった。「パワープレー」それが最もふさわしい表現だろう。200年前のイングランドフットボールリーグ創設時のメンバークラブであるストークシティの誇りがこの強さの根底にあるのだろう。クラブレジェンド、スタンリー・マシューズの魂が、ストークを動かしているのかもしれない。
ストークの激しい圧力に、ヤングアーセナルは押し込まれる。
攻め込むストークと守るアーセナル。だが、この時矢野明也へのマークは一人になっていた。ストークのクリスをケヴィンが弾きだしコーナーキックになる。得点の予感がする。ブリタニアスタジアム3万の観客が大歓声を上げ、ゴールを要求している。アーセナルは、11人全員がゴール前を固めた。コーナーから早いクロスが中央に入った。ストークの選手が競り勝つ。ボールがアーセナルゴールに向かう。だが、ストークには無情な、ボールがゴールポストを叩く音が響くとボールがリフレクションした場所にアーセナル背番号28番がフリーで待っていた。矢野明也はボールが来ることを予期していたようにボールをキープするとそのままゆっくりとドリブルで上がっていく。
矢野明也のドリブルは、どこかスローモーション映像のように見えた。ストークの選手が追いすがる。でもそれは、ただゆっくりとコマ送りされた映像の様で矢野明也には追いつかなかった。
キーパーと1対1になった矢野明也は、歩き始めた。そして面食らったキーパーとただすれ違った。
Phantom through?今日のプレーは、それとは似て非なるものだった。
矢野明也は、歩くようにゆっくりした速度でキーパーをかわし、ゴールネットにボールを包ませた。歩く矢野明也にストークの選手は追いつくことが出来ず、キーパーは手も足も出せないまま通過された。矢野明也の進化はさらに進んでいた。
矢野明也のゴールによってゲームは終わり、アーセナルは首位を堅持した。
ブリタニアスタジアムは沈黙したままだった。
アーセナルは、FIFAウィーク後のチャンピオンズリーグ決勝ラウンドに向け、心にゆとりを持って準備することが出来るだろう。
アーセナル対ユベントスの1stレグは、ユベントススタジアム。ヤングアアーセナルは、イタリアチャンピオンにどんな戦いを挑むのか?
(続く)