父からの連絡は、海外赴任の場所が、ミラノからロンドンに変わるというものだった。そして、父は家族をロンドンに呼んで、一緒に暮らそうという提案が入っていた。父の意図は、明也が裏切り者扱いされ、家族にも批判と嫌がらせが起きて、レイソロスタウンで困難になった生活を平穏に戻そうというものだった。
明也は、ホワイトボーイズのホームタウンでの平穏な生活が快適だったので、レイソロスタウンにいた時の様な困難さを感じなかった。寧ろ、ニューライジングサンが見える祖父の家での生活は、とても楽しかった。
それにしても九里ケ浜からロンドンは遠い。ユーラシア大陸を超えたその先の場所。明也は、どうすべきかわからなかった。ニューライジングサンのピッチに立つ夢を捨てなければならないかもしれない。祖父とも別れることになる。母と姉は、喜んでいた。
明也は、イングランドという響きに心が揺れた。イングランドへの憧れがあったからだ。純粋なイングランドスタイルのフットボールは、レイソロスのパワースタイルを連想させるので好きになれなかったが、トップクラブが見せるスペクタクルで洗練されたフットボールはまだ幼い明也にとっても憧れだった。そして、明也はプレミアのチームが持っているスタジアムが大好きだった。スタジアムは、皆その地の歴史的財産と言える建物であり、外観は重みがあり、ピッチの芝は、新品の最高級人工芝よりもずっと綺麗に見えた。いつかそのピッチに立ってみたいと夢を見たこともある。でも、それは、あくまで夢の中のことだ。
明也は、父がミラノに赴任している時にはなかったヨーロッパへの思いが強くなっている。カルチョの国への思いよりもフットボールの母国への憧れが、生み出したものかもしれない。明也にとって、ロンドンはフットボールの母国の中心であり、聖地ウェンブリースタジアムのある場所だった。だが、矢野明也はまだ11才になろうとする子供、家族と離れて暮らすとことは、夢にも出て来ない。だから、家族と離れて九里ケ浜に残るというのは、選択不可能と思えた。祖父の拓哉は、このまま皆が此処に残る事を望んでいるようだが、無言を貫いていた。
フットボールの母国で暮らすという、望んでも出来ないことが、現実に起きようとしている。ホワイトボーイズのホームスタジアム、ニューライジングサンのピッチに立つ事を夢見ていた矢野明也が、イングランドの地に行く事は、どういうことなのだろう。イングランドで今までの様にフットボールが出来ると思えない。九里ケ浜の地で、矢野明也は11才にして既にスターであり、知らぬ人はいない有名人だが、地平線の遥か彼方にあるイングランドでは、その存在すら知られてなかった。色々な思いが頭の中で湧き上がり、当然であるが、明也は答えを出せなかった。
九里ケ浜では、「矢野明也がロンドンに行ってしまう」という情報が町を駆け巡っていた。明也本人は、九里ケ浜に残ってフットボールを続けたいという思いがあった。でもそんな思いを吹き消す様に、矢野を残せないクラブに対する地元の不満の声が上がっていた。この声は消えることなく続き、オフシーズンでなければ、クラブ運営に不都合をもたらしただろう。「明也を行かせるな」の声は毎日ニューライジングサンを包み、矢野の家を覆った。
続く