ニューライジングサンが夏の日差しを九里ケ浜の空に撥ね返している。梅雨の晴間が現れる時、東の風は、湿った空気を大地に吹きつける。ロンドンでは湿った寒さばかりを感じていた。九里ケ浜はそれとは反対の湿った暑さが町を覆っている。ロンドンでは経験出来ない暑さがこの町にはあった。
ライジングサンを見つめている髪の長い少年、それは、懐かしさを感じる澄んだ眼をしていた。12歳だっだ少年は、ホワイトボーイズの宝物と言われ、この町にフットボールの楽しさと勝利の喜びをもたらした。暑い町をより熱くした。少年は16歳になった。4年の歳月が少年を大人に変えようとしている。少年が見つめるライジングサンのピッチは4年前とどこも変わらない。誰もいないピッチから声が聞こえてくる。「やっと帰ってきたのか」「中に入りな」そんな声が聞こえた気がした。
少年は矢野明也だった。
「潮の香りがするな」「波の音も聞こえてくる」「じいちゃん、ここの人じゃなくなったからだよね」とそんなことを思いながら。
ロンドンに伝わった祖父の状態は、軽いというものだった。だが、事実は異なっていた。明也が病院に着いてみると祖父は、集中治療室にいた。話すことは到底できない。明也は愕然とした。しかも、祖父拓哉は、明也には知らせないように周りに釘を刺していた。明也の元に短い手紙を残して。
翌週から始まるオーストリア合宿に合流するためには、明也が日本に滞在出来る時間は、24時間、丸一日しかなかった。明也は、急ぎながらも軽い気持ちでヒースロー空港に行き、祖父に会ってからとんぼ返りでヨーロッパに戻ろうとしていた。
集中治療室のガラス越しに見える祖父は、静かに眠っているようだった。このまま眼を開けないのだろうか。明也は不安が大きくなっていた。祖父の家に住んでライジングサンに通っていた日々が明也の頭に蘇っていた。毎日ライジングサンにやって来て、明也のプレーを楽しそうに見ていた祖父の姿が浮かぶ。「内の孫は並の天才じゃないぞ」「明也に敵う選手はどこにもいないよ」祖父は周囲にそんな話をしていた。「あの頃に戻りたい」明也はそんな気持ちに陥っていた。でも、時間は戻すことは出来ない。時計の針が戻ることはない。地球の裏側、地平線の遥か彼方のゴールを目指して九里ケ浜を出て行った矢野明也にとって、九里ケ浜は簡単に戻れる場所ではなかった。
明也がライジングサンの東側でピッチを眺めているとき、ライジングサンの反対側に犬を連れた少女と高校生ぐらいの少年が歩いていた。「リオ、走らないで」「良ちゃん、グランドに誰か居るよ」「あれは明也だ。帽子被って、眼鏡かけてるけど、明也だよ」リオと呼ばれた少女が少年に言った。「明也は、ロンドンにいるからここに居るはずないだろ」良と呼ばれた少年が答えた。2人の会話は、明也には届かない。良もライジングサンに明也がいるはずないと思った。明也は帽子を被り眼鏡をかけ、髪は栗毛色だった。ぱっと見日本人には見えない。でも少女の目は、正しかった。良にとって憧れだった明也がすぐ近くにいた。偶然の接近だった。しかし、二人が顔を合わせることは無かった。
天岡良は、ライジングサンの西を通り過ぎていき、矢野明也はライジングサンの東から動くことは無かった。
矢野明也は、祖母から預かった祖父の手紙をポケットから出し、ベンチに座って手紙を開いた。