アーセナルが懸念していた日本からの報道陣は、発表当日には国営放送のクルーだけしか見ることなく静かだった。だが、一転練習初日は、芸能やスポーツとは無関係の三面記事記者を含んだ大量のメディア関係者が押し寄せた。だが、押し寄せたのが、こともあろうかU−17の練習場だった。どこかでつかまされた偽情報によって日本の報道陣は、羊の群が動く様に集団でやって来て、我先に場所取りを始めてアーセナルアカデミーの練習場を取り囲んでいた。アカデミーのスタッフに必死に問い合わせるスタッフが複数いる。真面目で、一生懸命で礼儀正しいが、どこか滑稽だった。
日本の報道陣は、イングランドにおいて矢野明也狂想曲以来、ジョークに使われる程に可笑しな存在になっていた。
日本の報道は、偽情報があたかも本物顔で流される。fakeがfactを消してしまう。fictionがnonfictionにすり替えられる。島国の悲哀なのか、外から伝わった情報が分析も解析もされることなく信じ込まれてしまう。新しい情報が古い情報を凌駕する。だから新しい情報に飛びついてしまう。熱くなり易く、冷めるのも忘れ去るのもとても早い。
静かだった矢野明也の周辺は、再び騒がしくなってきた。だが、当の矢野明也は、ずっとグーナーズハウスと練習場のガナーズスクエア、そしてハイスクールでの生活だったので報道陣との接点はほとんど無かった。日本の報道陣は、本国での話題が薄まると後は現地の記者に任せ直ぐに引き揚げる。まだ、16歳になったばかりのフットボール選手のことなど直ぐに忘れてしまうのだ。
九里ケ浜では、1年前の出来事によって矢野明也の記憶は蘇っていた。ホワイトボーイズにもたらされた移籍金のことまで知っていたのはほんの一部だったが。かつてのチームメイト達は、誰も忘れてなかった。アーセナルのサイトやフットボールの情報サイトに掲載される矢野明也情報によってプレーは細かく伝えられていたから。
根元和と真原仁、そして天岡良にとっては、明也のプレーを見ることが明也の応援やフォローだけでなく、トレーニングにもなっていた。またいつか一緒にプレーする日を信じ、それを願っていた。
和と仁、良は、春から同じ高校に通っている。永生高校というこの地域では、有名な高校だ。かつて矢野晃、拓哉、直哉が通ったのも永生高校である。
晃の時代や拓哉の時代はまだ学校スポーツが中心だった。晃の時代、高校選手権と言う学校競技の頂点にあった大会に公立の進学校が初出場して話題になったことがあった。矢野晃が地元の無名高校を全国大会に導いた。100年の時を経て、晃の曽孫、矢野明也は、アーセナルいうビッグクラブのトップチームに昇格。プロとしての生活が始まろうとしている。
ニューライジングサンに熱い日差しが照り付ける7月、東からの風が強くなると夏の盛りとなる。シーズンオフのこの時期、ライジングサンは人影もなく、ピッチにまかれた水に太陽の光を反射している。そのライジングサンの東側の隅にピッチを見つめる人の姿があった。帽子をかぶり、脇から見える髪は長く、黒髪ではない。海外からやって来た人のようだった。