代表ウィークは未選出の選手達にとって半分オフの様なトレーニング期間になる。U−17、U−21、フル代表、どのカテゴリーも翌年の本大会出場権をかけた地域予選が佳境を迎えていた。世界の各地域で行われる大会は、フットボールの質でいえば20世紀の様なその時代の最先端の技術と戦術を競うものではなくなっていた。国の代表が国の威信だけをかけた勝利のみにこだわったフットボールを展開していた。特にヨーロッパは、EUの分裂以来、民族主義が最優先となり、ヨーロッパの覇権を掴むことがそれぞれの代表に課された至上命題になっていた。
矢野明也はどこの代表にも呼ばれていない。母国日本代表、年齢別代表、ずっと選ばれたことがない。イングランド代表騒ぎがあった一年前の出来事が矢野明也を完全に代表から遠ざけていた。良、仁、和のホワイトボーイズ3人組がU−17日本代表に名を連ね、その中心選手として名前が売れ始めているのに矢野明也に声がかからないのは謎であり、不思議なことと思われた。
JFAは何度か矢野明也の召集をアーセナルに打診していたが、答えは全て「NO」だった。地球の反対側で召集される合宿やゲームに参加させることは、「百害あって一利なし」「矢野明也本人は参加する意思がない」そんな理由によって、アーセナルは代表選考を事前の段階で潰していた。矢野明也が本当に参加の意思が無かったのかわからない。JFAからそんな打診があったこと自体が闇に葬られ、秘密裏に処理されていた。九里ケ浜出身の3人がいるU−17日本代表から誘いがあったら、矢野明也は進んで行ったかもしれない。いや、日本を立つ時の苦悩が蘇り、本当に辞退したかもしれない。それでも唯一つの事実がある。矢野明也は下の年代から代表チームと無縁だった。
「明也は代表のユニフォームを着てみたいと思わないの」ケヴィンの問いかけに明也は無言だった。「今の日本代表はそれ程強くないけど明也が入ったら全然別のレベルになるんじゃないか」ケヴィンが続ける。「1人入っても変わらないよ」明也の答え方で代表の話に乗り気でないのがわかった。「ケヴィンは明日からミラノだったよね。イタリアに勝って本大会出場を決めてこいよ」「そのつもりだよ。明也がイングランド代表に入ったら、本大会どころか世界一も夢じゃ無くなるんだよなぁ」「何、言ってんだ。また変な騒ぎになるよ」「騒ぎになっても、明也がイングランド代表になってくれたら、ロンドンの連中は喜ぶね!国王陛下も万歳だよ。そしてウェンブリーは直ぐ増築になるね」「代表のことはケヴィンに任せるよ。キャプテン・クランツ、サンシーロならアンフィールドの悪夢を忘れられるよ」「それを言うな!」
イングランドU−17代表でキャプテンを務めるケヴィン・クランツは、大逆転負けを喫したリバプール戦のショックを抱えながら、イタリアとのU−17ヨーロッパ予選最終節の会場、ミラノに向けて出て行った。
明也は代表ウィークの期間、アーセナルBの練習に参加していた。
アーセナルBは代表メンバーが少ないので歯抜けになるトップチームよりも密度の濃いトレーニングが出来る。そんなことでトップチームの代表未選出メンバーは殆どがBのトレーニングに参加している。
アーセナルB、明也がひと月前まで所属していたチームは、明也が抜けてからも連勝を続け1stディビジョンの首位を快走していた。
監督ヴィオラの指導が浸透して、戦うチームが完成している。とは言え、アーセナルBは毎年年明けの1月までは首位を行くことが多い。2月頃から下降線を辿り始め、トップチームへの選手排出による追い討ちがかかり、選手の量的不足から、あっという間に首位を譲り渡し、昇格圏内からも脱落してしまう。しかし今年のトップチームは覚醒した矢野明也の加入によって戦力レベルは格別になった。この流れはアーセナルBにとって久々に訪れたチャンスと言える。ディビジョン制覇とチャンピオンシップへの昇格が狙える。そんなアーセナルBのトレーニングは好調なチーム事情を映し出していた。兎に角内容の濃いものだった。勝利という薬が効いているうちはこれに勝るものはない。
明也は、トップチームのトレーニングよりもヴィオラの声が聞こえるBチームの方が好きだった。ヴィオラのレッスンはフットボールがもっと上手くなれる気にさせてくれた。
ゲームを看る眼とポジション取りについてはヴィオラの指導によるところが大きい。レアル・マドリー戦の完封劇で矢野明也がフランチェスタとロランドを封じ込めたのはヴィオラのアイデアとアドバイスの賜物だった。ヴィオラがプレーヤーとしても超一流だったが、指導者としても超一流だと言える証だ。
「明也、周りの動きをもっと観察してボールの出方を予測するんだ。相手の動きと味方の動きの先にあるボールを押えろ」「正確な予測は、人が走る速度もボールが走る速度も超えるんだ」ヴィオラの言葉は明也の心に響いていた。16歳にしてメッシやファントマを超えたと言われる矢野明也がボールを持つとチームは異次元の扉を開ける。それは練習でもトレーニングマッチでも明らかだった。
ロンドンに来て5年目となる矢野明也は、漸く九里ケ浜の呪縛からも解き放たれた様だ。フットボールに集中出来る日々がこの上ない喜びと感じていた。日本にいる頃は唯の憧れだったハイベリースタジアムやウェンブリースタジアムがいま目の前にあって、プロのフットボーラーとしてピッチに立とうとしている。地平線の遥か彼方にあったイングランドのスタジアムに触ることが出来る。ロンドンの人々はフットボールしか出来なかった子供を家族の様に受け入れてくれた。レイソロスタウンを追われる様に出て行った時から、矢野明也にとって家族は祖父母のことだった。だがあの時は九里ケ浜の人達が家族の様に見守ってくれた。そんな時も束の間だった。その九里ケ浜を捨てる様に家族のいるロンドンに来てしまった。盛られた大袈裟な前評判とアーセナルを入れ替わりで出て行ったアンヘル・ジアブロとの作られた物語によって、初めの頃はロンドンの人達に冷ややかな視線を向けられた。それでも唯大好きなフットボールをすることしか出来なかった。でもそれでよかった。周囲の喧騒はずっと続いていたが、周囲が騒がしくなるほど、ロンドンの人達は家族のように守ってくれた。九里ケ浜から映像の中で見ていたロンドンの街が故郷のようになった。今では九里ケ浜が、ニューライジングサンが、地平線の遥か彼方になった。レイソロスタウンの高台から東の地平線に浮かぶニューライジングサンはもう見ることが出来ない。フットボールのゴールを人並み外れて奪ってきた矢野明也がずっと夢に見たハイベリースタジアムでのプロデビューという目標達成が現実のものになろうとしていた。
日本の祖父にハイベリーのチケットを送る連絡をしたが、「飛行機はもう勘弁してくれ、TVで見るよ。早起きは苦にならんから。またじいちゃんを驚かせてくれよ」元気な祖父で安心したがロンドンには来る気が無かった。明也は、祖父と話して少しノスタルジックな気持ちになった。
代表ウィークが開け、いつも通りのメディアに追われる騒がしい日々が戻った。
「ケヴィン、やったね。イタリアに勝って1位通過。おめでとう。ヨーロッパ選手権も期待しているよ」「ありがとう〜す。でも、イタリアの奴らはとても上手かったよ。あれだけ上手いのに守るんだよね。奴らは若さとか幼さなんて何処かに捨てちまったね。イタリアのメンタルだよね。でも強かった。昔からイングランドはイタリアが苦手だから勝ててラッキーだったよ。本大会はスペインだから、明也も見に来てよ」
「スペインか〜。行ったことがないな。見に行くよ」「明也さん、サンチャゴ・ベルナベウはどこの国にあるか知ってるよね!」「マドリッドだよ。スペインの・・・・・・」
「明也がコメディアンしてる。熱でもあるのか?」
明也は、顔を赤くして照れている。「明也は明るくなったよね。毎日がフットボールのことばかりになったら、楽しくてしょうがないのかな?」「フットボールを始めた頃のように自分らしくやってみたら、上手くいってるだけかな」明也は祖父に言われた「ワガママにプレーしなさい」という言葉を自分なりに実行しようとしていた。「自分らしくにやったら、ハートレーンで10点とって、ベルナベウで5点とっちゃうの?」「たまたま上手くいってるだけだよ」ケヴィンの前にいる矢野明也はどこにでもいそうな16歳の少年だった。
明也が、ロンドンやアーセナルを家族のように感じるのは、いつもそばにいるケヴィン・クランツのおかげかもしれない。
プレミアが再開されて、アーセナルはホームハイベリーにチェルシーを迎える。ロンドンダービーだ。チェルシーはこの数シーズン、リバプールやマンチェスターシティとプレミア上位を占める3強のひとつだ。しかも今シーズンまだ負けがなく、首位をキープしていた。アウェーのアーセナル戦といえども勝ちに来るだろう。
レアル・マドリーを破ったアーセナルといってもリーグ戦は別物だ。しかも、チェルシーは、5年以上アーセナルに負けていない。矢野明也を警戒して来るだろうが、それ以上に優位な心がチェルシーを包んでいるだろう。
ジル・キャンベルが発表した先発メンバーは、選手を驚かせた。矢野明也の名前が無かった。ケヴィンはサブにも名前が無かった。選手は驚いた顔をしたが何も言わなかった。
明也は、トップチームの先発メンバーとしてハイベリーのピッチに立てると思っていたのに実現しなかった。ケヴィンが、ジル・キャンベルに選考理由を聞こうと「ミスター・・・・」と言ったが、それ以上言わなかった。
「ジルの選考はやり過ぎだよ。ミッドウィークのチャンピオンズリーグを優先したのは分からないわけじゃないけど、ダービーを引分け狙い見え見えなのは、ハイベリースタジアムが黙ってないよ。明也は出たいだろ。怪我の予防なんて理由を誰が信じる。」ケヴィンは納得して無かった。
「ケヴィン、選手を決めるのはジルだからね。選ばれなかったのは悔しくてガッカリだけどこれで終わりじゃないからね。」
「明也は強く言うべきだよ。その力があるから。今の世界で矢野明也をベンチに置いて許される監督なんて居ないよ」「ケヴィンはスタンドで観ててよ。チャンスを見つけたら、ジルにアピールしてピッチに立つよ」
「チェルシーの奴らにハイベリーで我が物顔されるのはもう御免だ。スタンフォードブリッジのゲームは俺も絶対出るぞ」ダービー前日のケヴィンは、熱かった。
ハイベリースタジアムは先発メンバーが発表されると驚きの声が上がり、大ブーイングが湧き上がった。矢野明也をベンチに温存して守備的な選手中心のラインアップはハイベリーを失望させた。明也コールが上がるのかと思ったら、「さよなら、ジル。今までありがとう」大合唱がハイベリーにこだました。
ハイベリースタジアムの雰囲気は、アーセナルをアウェーにしてしまった。チェルシーは棚ボタで楽なムードを手にした。
ゲームが始まるとスタジアム全体が、ジル・キャンベルへ怒りのムードに包まれて、チェルシーが楽な展開になるかと思えたが、そこがフットボールの不思議なところだ。アーセナルの先発メンバーは、守備的な選手ばかりだが、昨シーズンまでBにいた選手ばかりだった。アーセナルの純血メンバーが、首位を快走するチェルシーと対等以上に渡り合っていた。そんなゲームの流れは、スタンドのブーイングを抑え込んだ。ブーイングがおさまり、アーセナル選手への応援に変わっていった。前半はボールポゼッション、決定機の数、シュート数、ボール奪取数のデータでアーセナルが大きく上回ったが、スコアレスに終わる。
ハーフタイムのアーセナルロッカールームは、意気上がる状態で選手交代について口にする者はいなかった。ハイベリーのスタンドも矢野明也をコールするグーナーは見当たらず、この若い選手達で現ロンドンのトップにいるブルーズを叩きのめせと、ばかりに熱くなっていた。
後半、アーセナルはメンバー交代なく、矢野明也のデビューは、保留のままだった。
好調なヤング・アーセナルに対して、チェルシーは交替メンバーを投入。2枚替えの積極策で対抗してきた。それでも、アーセナルのボール保持は更に上がり、得点の気配が高まった。激しくボール狩りと速い展開でチェルシーゴールに迫るアーセナル。後半20分までに作った決定機は3回。決定的なゴールチャンスだった。チャンピオンチェルシーが、祈るような眼でボールの進む先を見つめたシーンだった。
ハイベリーのゴールポストが、チェルシーの味方をしてしまった。ヤング・アーセナルに簡単に勝利を与えないような力が働いた。スタンドの歓声は、ため息に変わり、不安がもたげ始めた。
アーセナルが、ゲームを優位に進めるも得点を奪えない状況に、ジル・キャンベルはついに明也にアップを命じる。トレーニングシャツの上にビブスを付けた矢野明也がピッチサイドでアップを始めると、それに気づいたグーナーは、大歓声と明也コールを始めた。ハイベリースタジアムが地響きのような唸り声をあげている。ノースロンドンに響き渡るハイベリーの唸り声は、他のすべての音を打ち消し、アーセナルの救世主、矢野明也のプレミアデビューを要求していた。
後半30分、アーセナルのメンバー交代。「28IN、18OUT」矢野明也の名前がスタジアムにコールされた。
15分間の持ち時間。矢野明也のソロ演技だった。明也が15分間で受けたボールは3回。全てがゴールシーンで区切られていた。明也がボールを持つとアーセナル選手の動きが変わった。アナログ時計が電子時計の1000分の1表示に変わった。全く動きが別のものだった。チェルシーはチャンピオンのプライドを捨てるような醜い守備で対抗しようとしたが、何もできなかった。矢野明也は「幻がゴールラインを駆け抜ける」ような自ら得点とチェルシー守備網を切り刻んだ2アシストによってゲームを決定づけた。
かつてビッグロンドンダービーと呼ばれたアーセナルVSチェルシー。新時代のスターが15分間ソロ演技を行った。そんなことが語り継がれるゲームとなった。
(続く)