シックスポイントマッチ。マンチェスターUは首位アーセナルと15あった勝ち点差を12にするチャンスを掴むことが出来ず、勝ち点差は18に広がった。しかも、抜いたはずのエバートンにも勝ち点で並ばれてしまった。
ゲーム終了後、両チームが互いの健闘を称えて握手する中、アンヘルだけは、ショックを隠せず、泣き崩れていた。また明也に勝てなかった。ハードスケジュールでベストフォームとは言えないアーセナルに力負けした内容を受け入れられなかった。何よりも、何よりも明也のプレーが自分よりもずっと先の次元にあると思い知らされた。
下の年代で戦った時は、ゲームには負けてもフットボールでは負けたとは思わなかった。でも、今日はその両方で徹底的に打ちのめされた。たった1点の得点差が何万光年の差に思えた。アンヘルはピッチに座り込んだまま動かなかった。オールドトラフォードは、そんなアンヘルを讃えていた。「アンヘル、シーズンは終わってないぞ!フットボールはこれからだ」オールドトラフォードは、アンヘルを優しく包んでいた。
明也は、アンヘルに声をかけたかった。オールドトラフォードに愛されたアンヘルが、とても羨ましく思えたからだ。明也が「アン・・」と声を出した時、ケヴィンが明也を制した。「明也、今はそっとしておいたほうがいい。今日のアンヘルは、リオンに呼ばれた時の様だ。何言ってもダメだ」明也は悲しそうな目をしたが、そのままピッチを後にした。アンヘルは明也が近くまで来たことに気がついていたのかわからない。アンヘルは、ピッチに残った最後の1人になっても、しばらく動かなかった。
プレミアリーグは、2位チェルシーが3位シティに敗れ、アーセナルがタイトルレースで優位に立った。チェルシーは、チャンピオンズリーグでの敗退が尾を引いていた様だ。
チャンピオンズリーグでチェルシーを狂わせたチームとアーセナルはミッドウィークに相見える。会場は、現代フットボールの教祖の銅像が立つ、ヨハン・クライフ・スタディオン。対戦相手のアヤックスは、アーセナルと同じようにアカデミーから昇格したばかりの若き才能が並んでいる。
ヤングアヤックスという名の由来は、100年前のクライフ時代に遡る程の伝統を持っている。チャンピオンズカップと呼ばれていた時代にヨーロッパカップを三連覇したヨハン・クライフのチームにあやかり「ハイパー・アヤックス」という呼ばれ方も聞こえて来た。
アヤックスに現れた救世主、ロリス・フェルカンプは、矢野明也と同じ16歳の少年だ。永久欠番になっていたアヤックスNo.14をつけたフェルカンプ、この年齢にしてピッチの支配者としてフィールドを縦横無尽に動き回る。ボール技術とポジショニングの絶妙さは、史上稀なるレベルだ。しかしそれだけではない。戦術眼と洞察力は、過去のレジェンドにも例を見ないほどのものだった。
フェルカンプと明也はポジションが重なり、とてもよく似たタイプの選手である。フェルカンプの方がパサーの色が濃くワンタッチプレーを好み、ドリブルすることが少ない。だが、2人共にチーム最高のフィニッシャーである事に変わりない。
両チーム共にフォーメーションは3-4-3。フェルカンプと明也は共に2列目の3の真ん中が基本のポジションになる。ただ2人共にフリーマンの様に動き回るのでどんなマッチアップになるか予想がつかない。
ネーデルランド、日本ではオランダと言う方が一般的だろう。日本の九州ほどの国土に1000万人が住んでいる。日本には約2万のフットボール場があるが、オランダには約5万のフットボール場がある。これはイングランドにも負けない数だ。国土は日本の20分の1、人口は10分の1の国にフットボール場は日本の倍以上もある。
オランダには、山と呼べる山がない。どこまでも平らな土地が続いている。九里ケ浜も四方に地平線が見える程平らなところだが、オランダはそのスケールが違う。国全部が平らなところだ。
アムステルダムに着いた明也は、オランダの持つ特別な空間の力を感じていた。アムステルダムは空が広い。背の高いビルもあるのに、どこにいても大地が見下ろせる感覚を持った。ヨハン・クライフを生んだ国は、日本には無い特別なエネルギーを秘めていた。
アムステルダムは、春と言うにはまだ寒い。遠く北極海から運ばれてくる冷気を受けながら、明也はアムステルダムの特別な空気を感じていた。
アムステルダム・アレナはクライフ の生誕120年を記念して、改装されてから今年で10年が経つ。7万人収容する巨大なスタンドはどこにいてもピッチが見やすい様に設計されていた。空間建築の妙だった。それでいてシンプルなデザインが施されていて、驚くほど快適だ。
「シンプルなフットボールは最も美しい。デザインもシンプルなものほど美しい」そんなクライフの言葉が聞こえてきそうなアムステルダム・アレナ「ヨハン・クライフ・スタディオン」
明也は、ヨハン・クライフ・スタディオンのピッチに立った。ハイブリッドのピッチは、凹凸が無く人工芝のピッチの様な平面性を持っていた。2㎝にカットされた緑の絨毯が水滴を表面にたたえて輝いている。
「明也、このピッチはボールスピードが速いぞ!ハイベリー以上だ。ゴルフの高速グリーンだよ」ケヴィンが明也に叫んでいる。
「ニューライジングサンと同じくらいだよ」明也の答えにケヴィンが呆れたような声をあげた。
「また、ニューライジングサンかい」ハイベリーは天然芝の最高レベルのピッチだが、ヨハン・クライフ・スタディオンはハイブリッドのメリットを最大に活かした平面ピッチだったので、ピッチも硬くボールの初速は最高速度に達する。フェルカンプやアヤックスの選手達がワンタッチプレーを極めてきた理由がわかるような気がした。
明也はヨハン・クライフの再来と呼ばれるフェルカンプとのマッチアップが楽しみだった。自分やケヴィン、そしてアンヘルと同じ年のフェルカンプがどんな選手なのかチェルシー戦の映像でしか見たことがない。ヨハン・クライフのプレーをほとんど知らない明也にとってフェルカンプとのマッチアップは未知なるが故の怖さと興味が膨らんでいた。
「明也、フェルカンプが凄いと言っても、アンヘルより凄いわけないよ!俺が完封するから心配しないで大丈夫だよ」ケヴィンはお気楽だった。
「アンヘルを止めたことないのに、フェルカンプを完封するなんて危険だぞ。軽く見ると大怪我するぞ」
「明也は心配し過ぎなだけだよ」
「ケヴィンはいつも気楽でいい性格だな」
明也は50年以上欠番だった、アヤックスNo.14が復活した事実が気になっていた。ニューライジングサンにある曽祖父晃のモニュメントの背番号は14だった。曽祖父が憧れたヨハン・クライフの再来と呼ばれるフェルカンプが並の天才であるわけが無い。明也はそんな予感がしていた。明日になれば全てがはっきりする。
ハイパー・アヤックスVSヤングアーセナルのチャンピオンズリーグ、クォーターファイナルは、世界が注目する一戦となっていた。
世界中からフットボールメディアが集まったヨハン・クライフ・スタディオンは、超満員に膨れ上がっていた。
世界が注目する一戦が、凡戦に終わる。これもフットボールの一部と言える。若き才能である矢野明也とロリス・フェルカンプは、オールコートマンツーマンとでも言うフォーメーションの中で直接マッチアップしていた。互いにタイトなポジションを取りながら、フリーでボールを受けることが無かった。アヤックスとアーセナルは共にフラットな3-4-3に構えてワイド40m、縦30mの中に20人のフィールドプレーヤーが密集して、プレスを繰り返している。スペースはほとんどない。互いに0-10-0のフォーメーションとでも言う様な密集の中でのボールの奪い合いだった。アーセナルのメンバーは、初めて経験するフットボールだと言える。トータルフットボールの進化形だと言えるかもしれない。
明也は、僅かなスペースを突いてボールを受けるが、フェルカンプに突かれてブロックされて自由にならない。明也を押さえる手段を研究していたアヤックスは、フェルカンプの攻撃能力を弱めても明也潰しを仕掛けてきた。明也にとって、50cmの隙間が出来たら、それは、スペースになる。だが明也を潰そうとしているフェルカンプは、ヨハン・クライフの再来と呼ばれるインサイト能力を持った才能だ。明也であってもその突破は、簡単には出来ない。このゲームは、両軍20人のミッドフィールドプレーヤーが潰しあいを続けるものだった。ヨハン・クライフ・スタディオンは、得点を生まないゲームにイライラが充満していった。
「ヨハンが泣いている」「攻めろ、アヤックス」スタンドはブーイングも入り乱れた大合唱になった。それでも、ゲームは後半になっても内容を変えることなく、時間だけが過ぎていった。
矢野明也が、ここまで完封されたことはない。逆も真なりで、フェルカンプも隙を狙って攻撃を狙っていたが、隙は無く、フェルカンプが狙った隙間には、いつも明也が現れた。
0-0というヨハン・クライフが嫌う結果は、素人目には完全な凡戦だった。ところが、戦った選手達、特に矢野明也とフェルカンプは最高の攻撃を最高の守備が抑え切ったものだと思っていた。だが、世紀の一戦は世紀の凡戦になった、そう伝えられるだろう。トータルフットボールの新しい形を90分間やり続けたアヤックスの技術と体力は、世界最強となったはずのアーセナルを遂に完封した。アーセナルがクリーンシートを決められたのはいつ以来だろう。特に矢野明也が出場したゲームが無得点になったことはない。
0-0という結果がセカンドレグにどんなドラマをもたらすのかわからない。攻撃フットボールの聖地、ヨハン・クライフ・スタディオンは、その教義とは似合わない結果だった。
得点を期待してスタジアムに足を運んだアヤックスサポーターは、今日の結果に不満だろう。如何に格上になったアーセナルと言っても、ヨハン・クライフ・スタディオンでこの結果は想像もしなかっただろう。
トータルフットボールのシステマティズムが守備的なスタイルに陥り、フェルカンプを核にした攻撃的フットボールを見せなかったことに悔いが残った。それでもホームアンドアウェーを180分ゲームと思えば、まだ前半が終わったところ。ハイベリーで点を取ったら形成はアヤックスに傾く。フットボールは予想がつかない。フットボールの奥の深さはクライフの時代も、100年経った今も変わらない。
(続く)