矢野明也と父の直哉が指定された場所に到着したのは10時少し前、この日のノースロンドンは7月とは思えない位寒い日だった。海水浴客で賑わう時期の九里ケ浜とは季節が違う様だ。現地に着いて明也は「アレっ」と思った。2人の着いた場所は、アーセナルアカデミーのオフィスではなく、アーセナルフットボールクラブのヘッドオフィスだった。「お父さん、ここアカデミーじゃないけどいいの?」「今日は、クラブの事務所に来るように言われたんだよ」「ここには、リオン・ファントマがいるんじゃない」そう言ってクラブのゲートを通過した明也は、ドキドキして来た。「今日はサインを貰えるかもしれない」昨日までは、ロンドンに来るべきか迷っていた矢野明也が、今はただのフットボール少年になっている。父は、今日の流れが予想出来ているだけに、これから起こることに明也がどんな思いを持つだろうと不安になった。12才の少年がプロ契約をするという普通では起きないことが現実になろうとしている。
クラブ事務所の受付を済ませて中に入ると、1階のホールには、アーセナルの歴史が記された展示品が並べられていた。数世代に渡り繋がれて来た200年の歴史は、「重さ」を超えた「オーラ」があった。そして、ホール奥のドアの前からこれまで感じたことのない「オーラ」と言う言葉では表現出来ないものを矢野明也は感じた。そこには、TVやDVDの中で見たことのある人が立っていた。
リオン・ファントマだった。
「ようこそアーセナルへ」「明也、君と会える日を待っていたよ」「君のプレーは、映像で何度も見たよ。克人にもよく聞いたものだよ」「君を追い始めて3年になるかな」「1年前、君がロンドンに来た事を知っていたら、今回の様な手の込んだ仕掛けの入団テストなんてしなかったよ」「さあ、中に入って」ファントマは、一気に言いたい事を伝えて来た。ファントマに入室を促されて、矢野直哉と明也の親子は、ゼネラルマネージャー、リオン・ファントマの部屋に入った。リオン・ファントマは、祖父がDVDを父に送る前から明也を知っていた。話の中にはホワイトボーイズの代表石木克人の名前も出て来た。今日の面会が、あらかじめ決まっていた様な流れだ。妙な空気を感じた明也はサインを貰うことなど何処かに飛んでしまった。
アーセナルのレジェンドであり、史上最高のフットボーラー、リオン・ファントマが明也を待っていた。アカデミーに入団する選手とアーセナルの様なビッグクラブのゼネラルマネージャーが直接会うことは、普通ではありえない。明也は、何かに飲み込まれる様な不安がよぎった。
石木さんの名前が出ていた。入団テストは手の込んだものだと言っていた。今思えば、父の態度にも不自然なところがあった。矢野明也だけが知らないシナリオがあって、その通り進もうとしている。
ウェンブリーでプレーしたいとか、ハイベリーのピッチに立ってみたいと思ったのは、最近の事、まだ夢にも登場しないぼんやりしたものだった。テストに不合格だったら九里ケ浜に帰ればいいと軽く思っていたのに、テストは形だけのものだった。
明也は、1年前にハイベリーを見てアーセナルに憧れを持った。いつかここでプレーしたいと。だがこの時、明也が望んでいたのは、ただ毎日大好きなフットボールをすること、それだけだった。九里ケ浜の東風を受けながら、普通にホワイトボーイズの仲間達とライジングサンで練習して、ニューライジングサンのピッチに立って、九里ケ浜の人達が喜ぶプレーをしたかった。
レイソロスタウンから東を望むと、地平線に浮かぶニューライジングサンが見えた。自転車で東に向かうと段々大きくなっていくニューライジングサンがいつもゴールだった。ゴールのはずだったニューライジングサンは、遥か東の空の下の見ることが出来ない遠い存在になってしまった。
(続く)