セインツは引いて守ると言う戦術をとった事が、致命傷になってしまった。終わってみれば、アーセナルはワンサイドでボール支配を続け8ゴールを記録した。ボール支配率は80%を超えた。セインツキーパーのビッグセーブが無ければ悠に二桁得点だったと思わせるほどの内容だった。
8万人のスタンディングオベーションだった。グーナーと呆れ顔のセインツサポーターがアーセナルNo.28を見送った交替シーンは、荘厳と言う表現が最も相応しいものだった。大歓声がハイベリーを包み込んだ。矢野明也はアーセナルの6点目、自身3ゴール目を記録した直後の後半15分にベンチに下がった。ミッドウィークのユベントス戦と次節ユナイテッド戦を踏まえた交替だった。
要求の厳しかったハイベリーのスタンドは、力強く、そして流れる様なフットボールの中心でゲームを指揮した矢野明也を賞賛していた。この勝利によってユベントス戦とユナイテッド戦への期待は一層高まった。
「明也コール」はやがてアーセナルコールに代わり、ハイベリーを包み、揺り動かした。セインツは力の違いを見せつけられたというレベルを超えて、仮想現実の世界に放り込まれた感覚だったかもしれない。
ハイベリーのスタンドにいたユベントスの先乗りスタッフは呆れ顔だった。
「アーセナルは矢野を抑えるだけでは足りないよ」「矢野を経由しない攻撃は予測しづらい」
「だが、矢野を経由した攻撃は予測出来ても抑えられないぞ」「ジャン、どう思う」
リバラだった。
リバラがハイベリーに来ていた。
ユベントスは、チャンピオンズリーグのために、今節のリーグ戦を完全ターンオーバーしていた。それ程、アーセナルとの2ndレグに全精力をかけようとしている。
「矢野明也の動きはシンプルだよ。ただ、動きの質が的確で量もずば抜けている。60分でどのくらい走ってる?」
「10㎞こえてるよ」
「ピッチにいたら、矢野明也は見えたり消えたりしながら、常に動いている。スタミナも世界最高レベルだよ。そして一番厄介なのが、ボールを持った時だ。ステップの取り方が異常に速いんだ。一歩目よりも二歩目三歩目は速すぎて見えない。Phantom throughの原理がそこにあるよ。ボールを持ってあの動きをされたら、ディフェンスは何も出来ない。昔見たリオン・ファントマが帰って来た様な感覚になった」
「原理が分かれば、対策を取れるんじゃないか?ジャン」
「簡単に言うなよ。ステップスピードは通常の3倍を超えているよ。常に4人で囲めば抑えられるだろうが、それはアーセナルの選手をフリーにするという代償を払うことになるぞ。一番いいのは、全体のプレーエリアを狭くして、フルプレスをかけて90分続けることだ。セインツの様に引いて守るのはアーセナルのミスを祈るだけのアーメンディフェンスだ」
「それで行こう。失点はするだろう。でも、こっちは最低2点が必要だ。攻めは、ジャン1人に任せるしかない。アーセナルの若いGKルーマンは時にポカをやるから、シュートを打てば可能性がある。それも期待しよう」
ミッドウィークのチャンピオンズリーグのためにユベントスはリバラまで先乗りして、スカウティングをしていた。アーセナルは誰も気付いてない様だった。ユベントスはこれ以上無いほど本気になっていた。キャリアの終わりが近づいている、チームレジェンド、ジャンカルロ・リバラにタイトルを獲らせるためにも。プレニアやリーガに後れを取って久しい、セリエAのチャンピオンの意地とカルチョの誇りを掛けた戦いが始まろうとしていた。
九里ケ浜は、春を迎えていた。
ニューライジングサンは春の陽射しを空にはね返して、キラキラ輝いている。矢野明也が九里ケ浜を離れて間もなく5年になろうとしていた。九里ケ浜は矢野明也を忘れてはいない。それはかつて矢野明也世代と言われたたホワイトボーイズの宝物達が矢野明也を忘れていないからだ。矢野明也と同年代の子供達は、16歳になった今、U-17日本代表の中心選手になっても、矢野明也とプレーした日々が最も輝いた時期だと思っている。そして、またいつか矢野明也とニューライジングサンでプレーする日が来ることを信じて疑わなかった。
ホワイトボーイズのユースメンバーが中心選手として出場したU−17アジア選手権で優勝したことは、九里ケ浜の町を熱狂させた。根元和、真原仁、天岡良、ホワイトボーイズの宝物は、日本の宝物となり、九里ケ浜の誇りとなった。ここに矢野明也がいたら、ホワイトボーイズはどれほどのチームなっていただろう。
矢野明也を失ってもホワイトボーイズは、ユースカテゴリーの最強チームに成長して、国内で対等に渡り合えるチームはどこにも無かった。
ニューライジングサンは、矢野明也の移籍金によって、収容人員が2万人に拡大され、大型ビジョンが設置された。大型ビジョンは、パブリックビューイングが行われ、U-17アジア選手権もすべてのゲームが放映された。スタジアムはいつも満員だった。九里ケ浜は、フットボールが生活の一部であり、ホワイトボーイズで育ったメンバーが入ったU-17日本代表も自分たちのチームだと思っている。6月にスペインで開催されるU-17ワールドカップに現地に行くメンバーよりも、ここニューライジングサンでパブリックビューイングにやって来る人ばかりだろう。
そんなニューライジングサンで開催されるパブリックビューイングは、チャンピオンズリーグラウンド16セカンドレグ、アーセナル対ユベントス戦となった。矢野明也のヨーロッパでの活躍は、九里ケ浜に伝わっていたが、必ずしも九里ケ浜の人達にすべて受け入れられている訳ではなかった。それでも大型ビジョンは、矢野明也の移籍金で設置されたものだ。ホワイトボーイズ代表の石木は、九里ケ浜の人々が矢野明也を応援することを願っていた。そんな願いを込めて企画されたパブリックビューイングだった。
チャンピオンズリーグが開催される時間は、日本時間の深夜だ。そんな時間にも関わらず、当日の夜には早くからニューライジングサンに来場する人はすさまじい数になった。2万人のスタンドは、満員だった。スタンドに入れない人も数え切れず、急遽ピッチが解放された。4万人以上の人がいただろうか?キックオフ3時間以上前からニューライジングサンは、いろいろな思いが渦巻いていた。矢野明也への批判の声も多かった。「裏切り者」と言う人も多数いた。それでも、アーセナルの28番をつけた矢野明也が入場するとニューライジングサンが揺れるような歓声が上がった。
「明也がこのニューライジングサンを見たら、びっくりするだろうな」良が仁に言った。「明也は今何を思ってピッチに立っているかな?九里ケ浜のことは考えもしてないだろ」仁が答える。「明也のじいちゃんもどこかにいるかな?」
明也の祖父、拓哉は、クラブのVIPルームに石木といた。
「明也、ユベントスに引導渡せよ」祖父はそれだけを呟いた。
ゲームが始まった。いきなり、Phantom throughがさく裂した。
ニューライジングサンは、大歓声に包まれた。ハイベリーまで届けという願いと共に。
(続く)