グディソンパークのトレーニング施設で行われたアーセナルの練習会場は、騒然としていた。矢野明也を見ようとするエバートンのサポーターと押し寄せた日本の報道陣は、押し合い圧し合い、揉み合いになっていた。だが、グディソンパークのトレーニング施設に矢野明也はいなかった。エバートンのサポーターも日本の報道陣もアジア系の選手を追いかけては、写真を撮り、奇声をあげている。
エバートンのサポーターは矢野明也を知らなかった。日本の報道陣も何の情報も持たずに突撃した取材だったのだろう。エバートンのサポーターが追っていたアジア系の選手を日本の報道陣も追いかけていた。そんな状況だから、ネット上に掲載された矢野明也は、本人とは似ても似つかぬアーセナルの日本人コーチだった。この日本報道陣のお粗末さは、イングランドの話題になってしまった。
ロンドンでは、その才能が認知されていた矢野明也も、リバプールまでは情報が届いて無かった。リーグ初戦でユナイテッドと壮絶なゲームを戦い、異次元プレーを披露したことも伝わっていない様だ。如何にイングランドであろうと、他の地域の他クラブのUー17選手を知っていることなど無い。贔屓のクラブ以外は、余程のビッグプレーヤーでなければ見ようしないからだ。エバートンのこと、レッズのことは知らないことはないが、関わりのない他の地域のことは、何も知ろうとしないのだ。イングランドでは、ネット上にプロ契約前の選手が顔入りで紹介されることはない。だから矢野明也は知られることがなかった。
矢野明也は、チームメンバー数人と別会場にいて5時のキックオフに合わせてウォーミングアップをしていた。ハイベリーの次は、グディソンパークのピッチでプレーできる。明也は、周囲の喧騒よりも、プレミアリーグのレガシースタジアムと言えるグディソンパークのピッチに立てることが嬉しくてならなかった。今回のおかしな報道は、九里ケ浜に届いているだろうか。明也は、自分がロンドンにいることが伝わっただろうか。九里ケ浜の仲間達は、どう思っただろうか。それが一番の気がかりだった。
「明也、代表に選ばれたらどうするんだ」ケヴィンが聞いた。
「選ばれても行きたくないし、行くつもりもない」明也はキッパリ答えた。
そして続けていった。
「自分は、この国を、フットボールの母国を代表するプレーヤーの資格なんて無いよ」
「イングランド代表?あり得ないよ、日本に帰れなくなるから」
「日本代表だったら?」ケヴィンが聞いた。
「日本にいる僕の旧友達は、僕のいたホワイトボーイズを強くすることだけを望んで、どんな批判を受けても代表に行かない奴らばかりなんだよ。僕も同じことを思っている」
ケヴィンは、明也の意思がはっきりしていると感じた。しかし、天才プレーヤーの明也を代表に入れたいと思うのは当たり前のこと。本当に明也の言う通りになるのかケヴィンは疑問だった。
「明也、今日は二人で暴れようぜ」ケヴィンが言った。
「ケヴィン、いつも通りだよ。特別なことをすることは無い。いつも通り、ボールを獲られず相手のゴールに運び続ければいいんだ」
「自分たちの出来るプレーをすること、そして相手から自由を奪うことだけだよ」
ケヴィンは、明也の中に潜む「怪物」を見たような気がして、ゾッとした。