No.10、LIVARAと刺繍されたユニフォームが明也の部屋にあった。
ユベントスにとってアーセナルとのチャンピオンズリーグファーストレグは、あってはならない想定が現実に起きてしまった。スタジオ・デッレアルピを愕然させたゲームは、ユベントスをチャンピオンズリーグ敗退の危機に陥れた。
ブーイングが鳴り響く中で、このゲームのタイムアップ直後、リバラがスタスタと矢野明也に歩み寄り、ユニフォームの交換が行われた。デッレアルピは、そんなリバラに冷たかった。リバラを戦犯扱いにする声が上がり、ピッチにものが投げ込まれた。「ミスター、ロッカーに戻ってから交換した方がいいのでは」明也の言葉にリバラは平然と答えた。「ボーイ、私が頼んだ交換だ。気にしなくていい。今日は天が君たちに機会を与えた。そして君はそれを逃さなかった。でもまだドローだ。ユベントスは負けたわけじゃ無い。ロンドンではおとなしくなってもらうよ」そんな言葉を発した時のリバラはまだ余裕があった。
明也は目の前にあるリバラのユニフォームがどこか寂しそうにしている気がした。近年、チャンピオンズリーグのタイトルに縁がなくて、バロンドールにも縁がなかった。リバラはもう直ぐ40歳になろうとしているのにロランドやフランチェスタよりもずっとすごい選手だった。明也はずっとそう思っていた。そんな大好きだったリバラからタイトルの道を塞ごうとしている自分自身が信じられなかった。リバラへの憧れとユベントスとのゲームは別物だと思っても、ユベントスには負けたくないけど、リバラには負けて欲しくなかった。出来ることなら決勝であたりたかったと思っても、どうにもならないことだ。3月のビッグゲームを前にした明也は、ジャンカルロ・リバラファンの少年になっていた。
ロンドンの町は3月を迎えても、春を感じることは無かった。アルプスから吹き下ろす寒風が弱まり、春が近いと感じさせたトリノから冬のロンドンに戻ったアーセナル。天の助けによってファーストレグをドローで乗り切ったヤングアーセナルは、休む間も無くリーグ戦、ホームにセインツを迎える。
ほんの少し前、のんびりしたFIFAウィークを過ごしていたことがはるか昔のことだと思わせるハードスケジュールがアーセナルを待っていた。
セインツ戦が終わるとミッドウィークにユベントスを迎えたチャンピオンズリーグセカンドレグ、その後はオールドトラフォードでのマンチェスターU戦と続く。
首位をキープするリーグ戦とノックアウトラウンドに入ったチャンピオンズリーグ、この2つのタイトルを狙うことは、スケジュールとの戦いという側面がある。国内に3冠タイトルがあるイングランドは他の国よりゲーム日程がキツくなる。若さと言うエネルギーが持ち味のアーセナルと言えどもこれからが正念場になる。
「ユベントス戦は来週考えればいいこと。今はセインツとのリーグ戦だけに集中すればいい」ジル・キャンベルは戦術面よりも選手の気持ちがぶれないことを注視していた。一戦一戦、ファイナルを戦う様に心と体を整えることがヤングアーセナル、矢野明也に課せられた試練だった。
ハイベリーはそんなヤングアーセナル内情を知ってか知らずか、アーセナルを応援しようと集まるグーナーで満員の状態が続いていた。今回セインツに割り当てられたチケットは、5千枚。残りの7万5千枚はグーナーが手にしていた。
ハイベリーのスタンドは、異常なほど盛り上がる。そしていつも厳しい。
矢野明也が出場したゲームをアーセナルは落としていない。引分けすらユベントスとのアウェー戦だけ。ハイベリーでは全勝だった。最近、グーナーが期待するのは、リオン・ファントマ時代以来の「トレブル」になって来た。プレミア、FAカップそしてチャンピオンズリーグの3冠だ。
昨シーズンまで、チャンピオンズリーグ出場権争いを勝ち抜いたものの、優勝争いには加わることができなかった。チャンピオンズリーグはバイエルンに無抵抗のまま連敗してラウンド16敗退だった。タイトル獲得最後のチャンスだったFAカップは、ファイナルでチェルシーにクリーンシートを決められて完敗だった。
そんな成功とは言いがたいシーズンの後にやって来た今シーズンは、開幕直後の躓きとウィッシャーの長期離脱によって、グーナーの期待は萎んでしまった。そこに現れたのが矢野明也だった。世界チャンピオンレアル・マドリーに王座から降りる時が来たことを告げる圧勝。マドリー相手にアウェーで5点、ホームで1点の合計6点を奪い、マドリーを崩壊させた。その直後のリーグ戦はターンオーバーで臨んだアンフィールドで大逆転負けを喫したが、矢野明也は出場していない。矢野明也が出場したリーグ戦は11月以来全勝を続け、チェルシーから首位を奪って3月を迎えた。
この流れになって3冠を期待しないグーナーがいたとすれば、それはグーナーではないだろう。ファンは夢を見る。その夢が現実になることを待っている。そんな瞬間に立ち会いたいと思っている。リオン・ファントマは、トレブルを当たり前のようにやってのけた。グーナーにとって、トレブルとは夢ではなく現実だった。
リオン・ファントマ時代の終わりから20年の時を超えて、矢野明也という超天才がグーナーの前に現れた。リオン・ファントマを超えるであろう矢野明也に課せられたのは、かつて持っていた全タイトルの奪還だった。
デビューしてまだ半年に満たない矢野明也が背負った期待は並外れていた。グーナーの期待は、チェルシーからそしてレアル・マドリーからタイトルを奪還することだ。そしてリオン・ファントマの様にアーセナルがそれまで見たこともないアイデアとイマジネーションのフットボールをする事だ。レアル・マドリーの様にただ得点だけを積み上げた攻撃は下品なものとしか見ていない。グーナー達は連携が生み出す機能美溢れる戦術や技術をいつも見たいと思っている。そしてそこにタイトルがついてくることを期待する。
リオン・ファントマの再来と呼ばれてきた矢野明也にかかる期待は、アーセナルが内容も結果も世界最高、史上最高に導くことだ。
セレソン、アヤックス、ミラン、バルサ、インビンシブルズ、史上に輝くレジェンドチームは既に過去のものだ。リオン・ファントマのアーセナルも歴史の1ページだ。
そんな歴史上のレジェンドチームを超える場所にアーセナルを導くことを期待された矢野明也。しかし、矢野明也はまだ16歳に過ぎない。数ヶ月前はアーセナルの下部組織の選手だった。プロ1年目の選手に掛かった過度の期待は明也を押し潰すかもしれない。そんな前例をあげればキリがない。ウィッシャーもそうだった。ヴィオラは潰れなかったが、ファントマほどの輝きを放つことはなかった。ファンは、夢が現実になったことを忘れない。だから明也を通して夢を見る。夢が現実になる瞬間を待っている。リオン・ファントマが描いた世界を超える現実を。
期待で一杯になったグーナーが見つめるハイベリーのセインツ戦は、開始からアーセナルの独壇場となった。ボールはアーセナルの選手から離れることは無かった。
中央、そしてゴール前を固めてカウンターだけを狙うセインツの戦い方は、クラシカルなアーセナル対応法だった。アーセナルはボールを持ち、中央、縦に並ぶケヴィン、明也、ティエミーがボールを持って揺さぶり、守備の乱れを拡大していく。固めた中央に突破口を作って行く。
ペナルティーアーク内でゴールに背を向けてケヴィンからの高速グラウンダーパスを受ける明也。その高速パスをワンタッチで角度を変えティエミーに繋ぐと消える様に密集を抜ける。ティエミーに向かったプレスを嘲笑う様にティエミーがワンタッチでスペースに出す。
ボールの向かったスペースには明也が現れた。ひとりだった。
舞台にピンスポットが当てられた様に矢野明也が浮かび上がり、トラップすることなく、右足が動いた様に見えた。セインツキーパーはセーブに動く暇もなく、ただ、自身の股間を風が吹き抜けた。
1-0アーセナルが先制する。
アーセナルの先制点は、5分以上かけてパスが繋がり、セインツはボールをただ目で追うだけだった。途中でドリブルやキープがあったが、100本を超えるパスが繋がって生まれたものだった。
だが、ハイベリーのスタンドは満足しなかった。ポゼッションの時間が長すぎる。もっと早く攻撃を仕上げることを要求していた。
「明也、今日のハイベリーは、要求が厳しいな」とケヴィンが言った。
「これまでに見たこともないフットボールが見たいんだよ。特にグーナーはリオンの時代があったから、要求は高いよ。普通じゃ満足しない」
セインツはアーセナルの前に為す術がなかった。アーセナルは流れるような攻撃を続け、美しいゴールを記録していった。