矢野明也1人が、目立ちすぎてしまったアーセナルアカデミーの入団テストは、矢野明也の為だけのテストになった様だ。ディフェンダー2人の補充というのは、なんだったのか。テストを受けた選手は、矢野明也以外全員がテスト終了と共に家路についてしまった。矢野明也は、クラブハウスに残され、アカデミーに関する説明を受けることになった。U−13所属だが、矢野明也はまだ12才になったばかりだったので、手続きは、保留された。
明也は、合格したという実感が湧かなかった。アカデミーの説明は、英語だったので全て理解出来た訳では無かったが、所々意味が分かった。仮契約は、月曜日になるとのことだった。「アカデミーに入るのに契約を結ぶのか」「練習する選手の入団に契約するなんて大袈裟だ」「イングランドは、さすがにキッチリしてるんだ」くらいに思っていた。
父が迎えに来ていたが、矢野の保護者と気付かれると父はオフィスに呼ばれ、暫く、オフィスに入ったまま出てこなかった。
1時間は過ぎただろうか。父がオフィスから出て来た時、明也は、オフィス内にいなかった。ヒマを持て余していた明也は、ボールと遊んでいようと練習ピッチの隅にいた。リフティングしていると選手が入って来た。これから練習が始まる様だ。U−17の選手達だった。選手達は、とても緊張している。矢野には目もくれずアップに入った。
父がオフィスから出て明也を探している。明也はひたすらリフティングをしている。アカデミーのスタッフが周りを囲んで、人集りになっていた。人集りの中から空に向かって飛び出すボールが見えている。「明也が、やっているのか」見ている人が感嘆の声を上げている。
人集りの外から「明也行くよ」と日本語が聞こえた。矢野明也は、落下するボールを音も立てず左足でキャッチする様に止めた。「もう行くのか」「また見せてくれよ」そんな声が聞こえた。
「ありがとうございました。あっ、サンキュー」矢野は照れながらアカデミースタッフにそんな言葉を発して、人集りから出て行った。父の直哉は、息子持つフットボール能力について気にした事が無かった。拓哉爺さんから送られて来るDVDは見たが、凄さの基準がわからなかった。
そんな明也が、12才でプロ契約のオファーを受けた。アーセナルは、アカデミーの練習生ではなく、プロの契約を打診してきたのだった。まだ12才の子供がプロ契約なんて信じていいのかわからなかった。むしろ不安の方が大きかった。明也は今日の真の結果を知らない。100人も受けたアカデミーのテストが終わると明也1人が残されたから、合格だと思っているだろう。しかし、いきなり、プロ契約のオファーがあったなんて信じられないだろう。帰宅する明也は、12才の少年になっている。
「お父さん、オフィスで何話してたの?契約がどうのと言ってたよね。アカデミーに入るのに契約なんてすごいね」「でもテストが、20分のゲームだけだとは思ってなかったよ」「しかも、負けたら終わりだったんだよ」「一瞬、負けたら、九里ケ浜に帰れるかなとも思ったけど」珍しく明也の方から立て続けに話しかけてきた。直哉は、直ぐに答えず、少し歩いてから、「明也は、九里ケ浜に残りたいの?」と逆に問いかけた。
「わからないよ」「ニューライジングサンでプレーするのが夢だったから、残りたいという気持ちはあるよ」「でも、ハイベリーを見たらこのピッチに立って見たいとも思ったよ」「ハイベリーはニューライジングサンと似ているよね」「ニューライジングサンが似ているのかな」「九里ケ浜にはチームの仲間がいるから、イングランドに来るにしてもちゃんとしないといけないんだよ」「裏切り者にされるのはもう嫌だから」
「明也は随分話す様になったな」「レイソロスタウンでの事がまだ気になってるんだ」と思った。久しぶりに明也と話した直哉は嬉しかった。
(続く)