父直哉は、明也に対して、ロンドン行きを半ば命令するように伝えて来た。父の発言が突然こんな風になってしまい明也は、戸惑った。明也の中で、ロンドン行きは半年前に済んだことだとの思いがあった。自分の中では、九里ケ浜での生活がとても好きで、何の問題もない素晴らしいものになっていた。家族が近くにいないことにも慣れて、自由に過ごし過ぎる面はあったかもしれないが。
今年は、小学校年代の最後となる年だ。U−7の時代から、ずっと一緒にやって来たホワイトボーイズの仲間達とU−12に上がり、その小学校最後の年を良い結果にしたいと思っていた。和と仁、そして最近この2人に肩を並べる程上手くなった天岡良。明也の年代は、当たり年というレベルを超え、ホワイトボーイズの歴史に残るような選手が生まれていた。明也は、この3人とよく話した。それは、絶対にタイトルを獲ろう、そして、みんなでホワイトボーイズのジュニアユースに上がって、強豪クラブに勝とうと。
U−12に上がった時のことを思い描いて来た明也は、突然ぶり返したロンドン行きを1人で悩み、答えを出せなかった、いや、出したく無かったという方が正しいかもしれない。祖父のことも気に掛かった。でも、祖父は、明也が海外のクラブでプレーすることを容認して積極的に勧めているようだった。逃げるように行こうとした前回と違い、今回は、生活の環境も学校も準備が整っていた。何よりもビッグクラブから明也がテストを受けられるということが大きな違いだ。テストを経てのことだから絶対入団出来るわけではない。だが、明也は、身内のひいき目を差し引いても並の天才レベルを超えている。今の明也がイングランドや他の国の子供達に負けるはずがないと祖父は確信している。祖父は、CSで放送されるプレミアリーグに明也が登場することを願っていたようだ。
明也は、ニューライジングサンに向かった。そして、グランドキーパーの許しを得て、ニューライジングサンのピッチに立った。ピッチには、明也1人、他に誰もいない。スタンドは静まり返っている。「明也、いつもどおりね、ボールは使っていいけど、スパイクはダメね」いつもと同じようにグランドキーパーに言われていたので、スパイクは履いてない。ボールは、チャンピオンリーグ使用球、いつもの5号ボールだ。
明也はリフティングを始めた。リフティングで空中を跳ね上がるボールは次第に高度を上げていく。ボールが5メートルを超えた頃、風の音が聞こえてきた。「あれっ」明也が思った瞬間、ボールは、風に流されピッチ上に落下して明也から離れていく。東の風が吹いている。風が運んだ潮の香りがしていた。「潮の香りを感じたのは、2年ぶりだ」祖父の家、九里ケ浜に住んで初めのうちは、波の音と潮の香りを感じていたが、最近は感じなくなった。矢野明也は潮の香りを含んだ町の空気が当たり前になっていたから。でも、今日は風も、潮の香りも、波の音も聴こえている。「変だ」明也がボールから離れて佇んでいると、グランドキーパーの1人から声が掛かった。「明也、リフティングがいつもと違うよ」「風が吹いて流されたんだよ」明也が答える。「今日の風はニューライジングサンのピッチまで届かないよ」グランドキーパーは、明也が珍しく言い訳するので追い討ちをかける。「普段、ライジングサンの風の中で出来る矢野明也と今日の矢野明也は違う人、偽の明也だな」明也は、グランドキーパーの冗談が妙に心に刺さった。そして、返す言葉なくピッチに立ったまま動けなかった。
(続く)