3月中旬のマンチェスターは、まだ春と言うには少し早いようだ。北海から吹いてくる北西の風は、ロンドンよりもずっと冷たく感じた。九里ケ浜の町ならば、桜が蕾をふくらませる頃、春本番を迎えようとする季節だ。
明也がユベントス戦で見せた「九里ケ浜の魂はここに」のポーズは、謎のまま。明也の中にある九里ケ浜のDNAが明也を動かしたのかもしれない。九里ケ浜で話題になった矢野明也の動きをイングランドでは誰も気に留めなかった。明也本人もこれを口にすることもなく、他から聞かれることも無かった。
明也はマンチェスターに来ても町に出る事は無い。明也が町に出て、ユナイテッドやシティのサポーターに見つかったら、激しいアウェーの空気に晒される。ロンドンのビッグクラブであるアーセナルは、チェルシーやスパーズと共にマンチェスターの町では敵そのものだった。
マンチェスターUのアイドルとなったアンヘル・ジアブロ。その最大のライバルである矢野明也は、マンチェスターの町では輝いてはいけない星だった。ホテルに居ても激しいプレッシャーを受けるが、間接的なものだから耐えることが出来た。6歳の頃からアウェーの風を受けてきた明也だから出来たとも言える。
夢の劇場、オールドトラフォードは、マット・ハスビーやサー・アレックスに守られながら、長く低迷した時代を脱出しようとしていた。低迷して以来、イングランド内の地位もマンチェスター内の地位においても、マンチェスターのもう1つのクラブ、シティに大きく差をつけられていた。ロンドン3番目のチームに定着していたアーセナルが今シーズンは一気にロンドンのトップに立ち、イングランドのトップに返り咲いた。そんなアーセナルに刺激を受けてか、チームを刷新したマンチェスターUは、連勝を続け、4位リバプールや5位スパーズと僅差の6位まで上がってきた。マンチェスターUの復活はある時期を境にしてからだった。それはアンヘル・ジアブロと言うアルゼンチン出身の天才プレーヤーのトップ昇格と時を同じくしていた。
アーセナルのアカデミーに在籍していた天才プレーヤーは、矢野明也のアーセナル入団と入れ替わるようにマンチェスターUに移籍した。リオネル・メッシの再来という冠がついたのは、アルゼンチン国内はともかく、ヨーロッパでは、アーセナルのリオン・ファントマ以来のことだった。そんなアンヘル・ジアブロがマンチェスターUの復活を現実のものとした。アンヘル・ジアブロはアーセナル退団の時から矢野明也とは切っても切れない運命で繋がっていた。そして、2人はユースの時代から、壮絶な対戦を繰り返してきた。
アンヘルと明也が直接対決したゲームでマンチェスターUは勝利を手にしていない。最高でドロー。個人のインパクトではアンヘルが上回ることが多いものの、アーセナルとマンチェスターUのチーム完成度は埋め切れない歴然とした差があった。だから、ゲームに勝つのはいつもアーセナルだった。
矢野明也はチームを活かし、チームの中で自分が活きるスタイルによってチームを完成形に高める。アンヘルは絶対的な個の王様だった。たった1人のジアブロは残りの選手が凡庸な10人であろうとチームを勝利に導く力を持っている。だから、リオネル・メッシの再来というよりも、ディエゴ・マラドーナを彷彿させる。矢野明也は、リオン・ファントマが進化を遂げたらこうなるだろうと思わせる。天から授かった能力は2人の間に遜色はない。
トップに昇格してからの矢野明也は、現世界最高と言われる選手達を凌駕してきた。フットボールにおけるアクションの技量は、アンヘル同様並の天才レベルではない。矢野明也を異次元に引き上げているのは、創造力、探知力、予測力、そして洞察力がおそらく史上例がないレベルにある。フットボールIQと言う指標があったなら、そのIQを実際のプレーで演じる技量と運動量を持っている。だから、まだタイトルを手にしたことがない矢野明也が16歳にして史上最高のフットボーラーの称号を得ようとしていた。
しかし、史上最強の負けず嫌いアンヘルは何があっても自分が矢野明也に劣っていると認めないだろう。マンチェスターUのサポーターも絶対に認めないはずだ。アーセナルがヨーロッパのカップ戦で強豪を相手に奇跡を起こそうと、カップ戦という一発勝負の中でのこと。プレミアの戦いこそが真の1番を決めるものと思っている。降格圏を彷徨っていたマンチェスターUをたった一人でEL圏まで引き上げ、チャンピオンズリーグ圏内、更には首位まで射程に捉えた。だから、アーセナルとの直接対決となる今節のオールドトラフォードは、勝利のみを義務付けられた一戦となる。アンヘルは、アーセナルに勝ち、矢野明也にも勝つということを自分自身のノルマとした。
オールドトラフォード、マンチェスターUそしてアンヘル・ジアブロは研ぎ澄まされた状態でアーセナルを迎えた。一方、アーセナルは、週2ゲーム、チャンピオンズリーグとプレミアリーグを戦い疲労の色が見えていた。
メディアは相変わらず、明也とアンヘルの戦いを煽るように報道する。フェイクも散りばめられている。言った事も無い明也のコメントがネット上で炎上する。明也にとってここは紛れも無いアウェーだ。容赦無いアウェーの空気は、幼い頃経験したレイソロスタウンの比では無かった。
シアターオブドリームス、夢の劇場、オールドトラフォードは、超満員に膨れ上がっている。スタンドは赤一色、レッドデビル、マンチェスターUの復活を宣言するスタンドの雰囲気は、アウェー、アーセナルに恐怖を感じさせるほどに殺気立っていた。
アーセナルのキックオフでゲームが始まると大ブーイングがオールドトラフォードを包み込んだ。矢野明也にボールが渡るとブーイングは最高レベルに到達していた。アーセナルのメンバーが恐怖を感じるほどにボルテージの上がったオールドトラフォードは、矢野明也に牙をむいているようだった。
明也は落ち着いていた。自分へのブーイングが、どこか懐かしいものに感じた。まだ幼いころレイソロスタウンにある「ドリームフィールド」で浴びたブーイングを思い出していた。あの頃と変わらない雰囲気が、マンチェスターの町で蘇った。自分の生まれた町はレイソロスタウンだった。その町でブーイングを浴び続けた。当時は本当の意味を理解してなかった。今、オールドトラフォードで受けるブーイングの意味も実は解っていない。ブーイングは、明也コールと変わらないものだった。
明也は、いつもと同じようにボールを動かす中心にいた。マンチェスターUのプレッシングは、牙をむくオールドトラフォードと同じようにアーセナルに襲い掛かる。
プレッシングからダイレクトプレー、その先にいるアンヘル・ジアブロ。かつて時代の先端を行く攻撃的フットボールを築いたマンチェスターUが、アンヘルによって新時代のダイレクトプレーを完成させた。
ボールを保持するアーセナルとプレッシングのマンチェスターU。既視感のあるゲーム展開になった。
マンチェスターUが、ユベントスのようになっていた。
(続く)