「サンチャゴ・ベルナベウの奇跡」これはアーセナル側から見た場合のタイトルだった。レアル側からタイトルをつけると「サンチャゴ・ベルナベウの悪夢」になるだろう。現世界王者であり、チャンピオンズリーグを3連覇中のチームが、王者から陥落して久しい、王者だったことすら忘れられたアーセナルを相手に3点差を守れず、後半5失点して負けを喫した。これもまたフットボールだよと言えばそれまでだが、中身は現実に起こり得ることとはかけ離れたものだ。アーセナルのたった一人の選手が、当にたった一人で5得点をあげた。レアル・マドリーが長く保持している世界最高の戦力と戦術、そして絶対王者のプライドを破壊した。
歴史的名将と謳われたレアル・マドリー三冠3連覇中の監督は、このゲームによって、解任の危機に見舞われた。其れ程、矢野明也のプレーは、世界に衝撃を与えた。早速、マドリー会長、悪名高いフローレン・ピレス三世は、矢野明也の獲得に乗り出していた。水面下ながら、5億ユーロを提示したとの情報も出ている。
その昔、リオネル・メッシは、デビュー間もないクラシコでレアル・マドリーを震撼させるハットトリックをやってのけた。リオン・ファントマは、ノースロンドンダービーでホワイトハートレーンを凍りつかせるハットトリックのデビューだった。プレミアデビューすらない矢野明也が、ヨーロッパのデビュー戦で世界王者を凍りつかせる5得点。メッシやファントマを超える才能が遂に生まれた。イングランド国内では注目選手だった矢野明也がヨーロッパの主役、いや世界の主役になろうとしている。
チャンピオンズリーグ第3節が終わると、矢野明也を取り巻く環境は、騒がしさのピークを超え、アーセナルが続けてきた報道管制を維持することが不可能になっていた。
絶え間なく押し寄せる報道陣は津波の様にアーセナルスクエアとアーセナルハウスを飲み込んだ。日本の報道陣は、矢野明也がロンドンで注目され始めた時からバラエティ関連クルーばかり動くロンドンの嫌われ者だった。その日本でもフットボール専門メディアが登場し始めた。逆にフットボール専門メディアだけだったイングランドのメディアは、報道バラエティからタブロイド系のものまで増えていた。日本メディアの様な予測不能の動きは無いものの、その増え過ぎた報道関係者は、毎日ハイベリーを満員にする程だと伝えられた。
チャンピオンズリーグ第3節と第4節の間隔は1週間しかない。同じ相手がホームとアウェーを入れ替えて戦う。矢野明也は週末のプレミアはベンチに入らなかった。ターンオーバーされチャンピオンズリーグのメンバーになっていたからだ。だが、ハイベリーにエバートン迎えたアーセナルは、ゲーム終了間際に同点ゴールを決められて、引き分けにされる。ハイベリーのスタンドは、途中不甲斐ないホームチームにイライラが募り、明也コールが起きていた。同点ゴールを決められた時はイライラが頂点に達し、明也コールは大ブーイングに変わった。それは矢野明也をベンチに入れなかったジル・キャンベルに矛先が向けられたものだった。レアル・マドリーに史上稀に見る内容で勝ったからといって、その後のプレミアでお粗末なゲームすることは許されない。相手が、強豪エバートンとなればなおのことだ。アーセナルは常にプレミア優勝が目標であって、ホームの引分けは負けに等しいからだ。スパーズ相手(さすがにスパーズ相手だったら矢野明也を召集外にするターンオーバーは無いが)だったら、ノースロンドンダービーで怪我でもないのに主力をベンチに入れない判断はブーイングでは済まない。監督交代の声が上がり、チーム首脳陣と選手は凄まじい批判の嵐に包まれることになる。
プレミア未デビューの選手とはいえ、イングランド内での矢野明也はトップ選手をも凌ぐ知名度だ。そんな矢野明也を取り巻く報道陣が活躍し過ぎた1週間が過ぎ、チャンピオンズリーグ第4節の日がやってきた。
レアル・マドリーは週末のリーガでバルセロナと戦い、アウェーカンプノウで5点を奪って、マニータを達成していた。もうクラシコと言うには、差が歴然となったレアルとバルサ。とは言え、レアルが受けたチャンピオンズリーグ第3節の屈辱はバルサ戦の勝利で癒されるわけではない。チャンピオンズリーグの借りは、チャンピオンズリーグで返さなければならない。破壊された誇りを取り戻し、借りを返すのは、アーセナルのホームスタジアムでなければならない。レアルの召集選手は、ホームの3節とは大きく変わっていた。ロランド、フランチェスタ、ツェフォンを残して先発が入れ替えられている。
レアル・マドリーは世界最高のクラブ。並みのビッグクラブがターンオーバーという2つのチームを回すのとは違う。世界トップレベルのチームを3つ持っている。過剰戦力と言える他のビッグクラブも真似出来ないものだ。国内リーグとチャンピオンズリーグ、そして、トーナメントのカップ戦を戦うセットに分けている。今回のロンドン遠征に召集されたチームセットは、カップ戦を戦うチームが中心になっていた。このセットは実質レアルの最強セットであり、チャンピオンズリーグのファイナルを3連覇した選手ばかりだ。そして、マニータでバルサを撃沈したゲームにロランド、フランチェスタはベンチにすら入らなかった。アーセナルへの復讐の準備をしていたからだ。チャンピオンズリーグの予選ラウンド段階でレアルはチャンピオンズリーグファイナルの様な落とせないゲームの準備をしてロンドンにやってきたのだ。前回の負けは其れ程の屈辱だったのだ。
シーズンが深まる前の時期にレアル・マドリーファイナル用のセットが集まることは稀だ。アーセナルサポーターは、ハイベリーにやって来たレアルの最強セットを楽しみにしながらも、怖れも感じていた。このセットになるとロランドとフランチェスタは最強レベルの次元に覚醒する。このセットの選手は対人能力、そして対ボール能力が並外れている。心技体が世界最高、史上最強レベルにある。ロランドとフランチェスタを別次元に押し上げる力も持っていた。矢野明也を甘く見て、油断があった前節のチームとは別のチームが来た言えるだろう。
グーナーの期待と不安が混ざり合ったハイベリーのスタンドは、アーセナルにとって力となるほどの素晴らしい雰囲気を作っていた。レアルに対して、傲慢な態度をとらず敬意を払っていた。アーセナルを讃え、選手を讃える態度はこの数年では見られなかったものだ。グーナーはプレミアの不甲斐なさには激怒したが、既に頭を切り替えていた。このゲームを取れば世界王者レアルを抜いて、チャンピオンズリーグ予選ラウンド1位通過が見えてくる。そして、このゲームには、前節ベルナベウの3点ビハインドを1人でひっくり返した矢野明也がいる。グーナーの期待は高まって、声援に力が入る。
「良、早くしろよ。始まるぞ」「明也は出て来た?」「もう直ぐだ」
真原仁と天岡良が、インターネットTVを見ている。「明也は今日も点を取るかな」良の問いかけに仁が答える。「取るだろうな、アウェーで5点だぞ、でも今日のレアル・マドリーは凄いぞ」「レアルは前節と選手が違うね」「良はレアルのこと知らないんだな。今日のレアルが本当のレアル・マドリーだよ」「レアルは選手が多すぎるからだよ。普段のゲームに出ない選手が何人もいるから名前が覚えられないんだよ」「ロランドとフランチェスタが分かればいいよ。ヴァランは今日ベンチスタートになったな。ヴァランはアーセナル出身だから、ハイベリーでプレーしたいだろうな。でも先週何も出来なかったから罰を受けたかな」「へ〜、そうなの?」「良は本当になーんにも知らないなぁ」仁と良の会話は呑気なムードだった。日本時間の真夜中にオンエアされる76-77UEFAチャンピオンズリーグ第4節。
2人、特に天岡良はゲームよりも明也を見たいだけだった。九里ケ浜に伝わってくる矢野明也情報は、アーセナルの報道規制もあったので、それほど多くはなかった。それでも、世界王者を相手に九里ケ浜出身の16歳の少年が5得点を決めたことを知らない人はいない。ホワイトボーイズの宝物と言われ、驚く程小さかった少年が5年の間に史上稀に見るレベルに達したことを喜んでいた。ロンドンに行ってしまった時は、裏切りものだといった人もたくさんいた。それでもアーセナルからホワイトボーイズにもたらされた移籍金のことが公表されると九里ケ浜の人たちは複雑な思いだった。九里ケ浜の人たちは皆が矢野明也のファンであることに疑いない。仁、良、和、そして明也とプレーしたメンバーは、明也を知る最高のサポーターだろう。そんな仲間たちが見守るレアル戦。
選手が出て来た。そして、チャンピオンズリーグアンセムが流れた。
インターネットTVは、赤いアーセナルのユニフォームをつけた背番号28をアップにしていた。レアルの選手が矢野明也と握手する姿が大きく映される。ハイベリーの大型スクリーンにも矢野明也と握手するレアルの選手が映されていた。
良には、レアルの選手と明也の立場が逆の様に見えた。レアルの選手が矢野明也に挑戦者として向かっているみたいだ。「明也のアップはデカイね。完全に今日の主役だね。ロランドとフランチェスタが明也を睨んでいたよ」良が言うと「今日のあの2人は最初から本気だろうな。先週は少し舐めた感じだったからね」「明也を舐めたらダメだよ。小さい時からずっとそうだ。相手が強くなればなるほど明也はそれ以上に強くなるからね」「良の言う通りだけど、今日の相手は本気になってる天下のレアル・マドリーだからな」
九里ケ浜は、秋真っ盛りでロンドンの様な寒さではない。東の風はおとなしくなって、乾いた西の風が静かに吹き始める頃。11月初旬の真夜中、少しだけ波の音が聞こえている。南の空にオリオン座が輝き始める季節だ。
レアルのキックオフでゲームが始まった。
ロランドからフランチェスタにボールが繋がれる。サイドキックのパスがいつもより速いスピードを出している。ハイベリーのピッチはベルナベウやオールドトラフォードよりもボールが走る。アーセナルは世界最高のチームではなくなったが、ハイベリーのピッチは今も世界最高だ。ピッチがいたずらする、変則バウンドがほとんどない。普通のチームならこのピッチはアーセナルを優位にするが、レアル・マドリーが相手だととんでもない。マドリーがずっと優位だ。より高い技術を持つマドリーが自分達の意思でボールを持ち続けられるからだ。氷上を動くアイスホッケーのパックの様にボールが動く。「ティキ・タカ」オールドバルサスタイルをレアル・マドリーが演じている。「オーレ」の声が出てきた。そして「ア・ラ・マドリー」が聞こえてきた。ハイベリーのスタンド最上階に5000用意されたアウェーシートは、マドリーサポーターで埋まっていた。精一杯の声が上がっている。ハイベリーは8万人収容だから、グーナーは15倍いることになる。
ホームの後押しによりアーセナルは未だ隙を見せず、マドリーのポゼッションを凌ぎ、シュートを防いでいた。開始10分がとても長く感じた。オープニングラッシュを凌いだアーセナルにスタンドは、アーセナルの攻撃を期待して、7万5千人の大合唱が始まった。明也コールがハイベリーを揺らす程の音量になった。スパーズ対ユベントス戦をやっているホワイトハートレーンやチェルシー対バイエルンをやっているスタンフォードブリッジまで聞こえる様な大きさだ。
だが、完全アウェームードの中でもこのマドリーは冷静だった。完全に勝ちに来ている世界王者は、「これがフットボールだよ」と最新のフットボールレッスンをしているようだった。強く、速いボールがピッチを走り、美しいシンフォニーを奏でている様だ。更に10分が経過していた。
「やっぱり凄いぞ、マドリーは」「こんなの初めて見るよ」良と仁が声を出して感心していた。「明也はずっとフランチェスタについているだけなのかな?ボールを取りに行けないぞ」良が明也の動きを疑いの目で見て言った。「明也は何かしそうだぞ、あれは何かを狙っている動きだ」仁が答える。
マドリーがずっとボールを持ってアーセナルを走らせている。アーセナルはほとんどボールを取れない。マドリーは引き始めたアーセナルをあざ笑う様にミドルシュートを打ち始める。スペースを空けたら、シュートが飛んでくる。前に出るとボールを動かされ走らされる。ゲーム開始から明也はフランチェスタの前に立って、その視界の中にいた。一瞬フランチェスタが矢野明也を視界から外した。明也はフランチェスタの死角になる位置に回っていた。
フランチェスタはパスを受け、前のスペースが空いたタイミングでミドルを打ち込む意図がわかった。
「フランチェスタがボールロスト!」良が叫んだ。インターネットTVの画面に明也は見えない。「何言ってるんだ。あんなフリーのフランチェスタが誰に取られ・・・・」仁が言い終わるより早く映像は矢野明也に切り替わった。「明也は何処から出て来たんだ」フランチェスタはシュートを打てなかったばかりか、ボールを奪われていた。「ほらね」良が得意そうに言った。
別次元に覚醒したフランチェスタから、矢野明也は一瞬で、TVカメラが追うより早くボールを奪った。ハイベリーが大音響のスピーカーになったようだ。矢野明也コールの音量がマックスに上がった。
天岡良が「Phantom pressing 」そんな名前をつけた。「明也はあれを狙ってたんだね。世界最高のMFにあんなこと出来ちゃうんだ」「点が入るね」良が続けて言った。
良の予言通り、矢野明也は最強と言われるレアル・マドリーを全く問題にしなかった。ゴールまで一直線に進んだ。明也を包む時間とレアル・マドリーの選手を包む時間は別のものだ。ツェフォンが立ちはだかったのもほんの一瞬のことだった。矢野明也はツェフォンがそこにいないかのようにツェフォンをすり抜けてゴールした。
「Phantom through」レアル・マドリー相手に何もさせなかった。前節でロランドにやったボール奪取を今度はフランチェスタにやった。フランチェスタは茫然としていた。ベストの状態だと自覚していたフランチェスタがいとも簡単にボールを奪われた。ロランドがフランチェスタに何かを言ったが、フランチェスタは動かなかった。
覚醒したはずのフランチェスタが矢野明也の前では、為す術がなかった。マドリーは一転して受け身のチームになってしまった。かつてメッシのバルサに対してゴール前を固めてカウンター狙いをするレアル・マドリーが蘇る。フランチェスタの一回のボールロストが、レアル・マドリーを守ってカウンターという王者のプライドを捨てたチームにしてしまう。フットボールの怖いところだ。ロランドに一発カウンターを放り込むだけになっていった。ゲームは1-0で前半が終わる。
後半に入っても、ゲームの結果はどうなるかわからない状況だった。しかし、れある・マドリーは、ゲームを終わらせることだけを考え、それを実行し始めた。これ以上の失態を避けるという弱者の行動だった。
プライドを守るためだけだった。
「このゲームは終わったね。明也もロランドへのボールをカットすることだけを狙っているよ。明也が守備を本気でしている。でもそれが最強のマドリーを押さえこんじゃった。アーセナル選手の動きが落ちないし、マドリーは腰が引けているよ」良の言葉に仁も頷いている。
「終わったね」仁がインターネットをオフにした。
良と仁が確認するまでもなく、ゲームは1-0で終わった。3年間負けが無かったレアル・マドリーがチャンピオンズリーグの予選ラウンドで連敗した。