初めて訪れたマドリードの街は、とても熱かった。気候ではない。街が、フットボールに染められていたからだ。街がロス・ブロンコスで溢れていた。この街には、ロンドンと同じようにいくつものフットボールクラブがある。だが、スペインの王がマドリードにいるようにレアル・マドリーはマドリードの王であり、スペインの王だ。マドリードの人々は、「レアルは世界の王だ」と言うだろう。今レアル・マドリーは選手、施設、資金、実績において他のクラブを圧倒している。
ロンドンはダービーが最大のモチベーションになる。やる方も観る方もダービーが最高のものだ。ダービーマッチはフットボールが存在し続ける理由と言っても言い過ぎではない。一方、マドリードではレアル・マドリーがいつでも王者だ。マドリードで行われるダービーは、他のクラブがレアルに胸を借りて戦うものだ。格下が遥か彼方の格上に挑むもの。マドリーとの戦いは、いっときアトレティコが、レアルに迫る勢いを見せたことがあった。しかし、200年近いスペインフットボールの歴史ではレアもの。過去から現在迄レアル・マドリーに対して優位になったマドリードのクラブはない。最後に勝利するのはいつもレアル・マドリーだ。
ここ数年、レアルの強さは異常だ。バルサとのスペイン国内のライバル関係に終止符が打たれるとレアル・マドリーはスペインの絶対王者となった。国内に対抗出来る相手は存在しない。ロランドとフランチェスタさえもバルサのカンテラ出身なのにレアル・マドリーに在籍している。スペイン国内のクラブがレアルの育成機関になってしまったからだ。
FCバルセロナ。かつてはグアルディオラ、シャビ、イニエスタ、そしてリオネル・メッシを生み出した育成システムとクラブマネジメントシステムは、既に崩壊していた。メッシの引退後、ネイマールがクラブを支えた時代もあったが、長くはなかった。育成からトップに昇格する選手は、気がつくと別のチームでプレーしている。育成よりも外からビッグネームを買う、そうなってしまった。ネイマール以後、バルサは50年近く、タイトルから遠ざかっている。その昔、2強と言われクラシコと呼ばれるナショナルダービーを戦ったバルサは既に無い。スペインはレアル・マドリーの1強多弱がはっきりしている。今世紀始めにあったバルサの時代は、記憶の陰に消えていった。
アーセナルは、リオン・ファントマ時代に世界最高のクラブに君臨していた。リオン・ファントマのバロンドール7回受賞とチャンピオンズリーグ6連覇というディ・ステファノがいた古のレアル・マドリーを超える記録を作った。パトリック・ヴィオラの時代はチャンピオンズリーグこそ取れなかったが、レアル・マドリーよりもずっと強いクラブだった。
時代が変わった今、レアル・マドリーに対抗出来るクラブはヨーロッパに存在しない。世界中にも存在しないだろう。そう見えている。レアル・マドリーはチャンピオンズリーグ3連覇中であり、今シーズンも対抗出来るクラブが見当たらない。
レアル・マドリーは、昔から力でねじ伏せるフットボールを続けていた。メッシの時代から正義のバルサ対悪の帝国マドリーの関係が続いてきた。ところが、マドリーが若き10代のロランドとフランチェスタをバルサから獲得した時流れが変わった。この2人の加入によって、フットボールの質と育成の取組、クラブマネジメントが一新された。美しい技術を持った選手が躍動し、勝利も手にしていった。バルサは、カンプノウの収容人員を更に大きくするために資金調達を狙い、有望な選手を売り続けてしまった。選手の売却だけとどまらずクラブの魂迄売ってしまった。そしてレアル・マドリー1強構造が出来上がった。
アーセナルは、ずっとずっと、育成を最重視してきたクラブ。アーセナルの中心選手はほとんどがアカデミー出身だ。マドリー最終ラインのフランコ・ヴァランもアーセナル出身だが、勝利から遠ざかってもリオン・ファントマ時代の亡霊に振り回されるチームを見限り、アーセナルを出ていった。3年前のことだ。ヴァランの加入によって、マドリーは最強になった。以来リーガと国王杯、チャンピオンズリーグを3連覇している。
完全自家育成のアーセナル対育成も外部購入もなんでもありのレアル・マドリーがぶつかるチャンピオンズリーグ1stレグ。戦前予想は、ホームのマドリー3点差以上の勝ちが大方の予想。マドリードでは、マニータ(5得点)の勝利に賭ける人がかなりいる。普通のことだ。
マドリードで矢野明也の話題が1番になることはない。トップに出てくるのは、ロランドであり、フランチェスタであり、マドリーの話題だった。矢野明也に触れた記事は見逃しそうなくらいの隅に数文字あるだけだった。しかし、矢野明也にとって、マドリードでゲーム前の騒がしさがない方が、よかっただろう。ロンドンだったらこうはならない。救世主扱いされた記事が矢野明也に圧をかけただろう。そしてロンドンでは、裏切者扱いされるヴァランと対比され、ある事ない事、記事にされただろう。
チャンピオンズリーグアンセムが鳴り響く。背番号28のアウェーユニフォームを着た明也は、目を閉じたままだった。チャンピオンズリーグのセレモニーは重厚感があった。ところが、明也はセレモニーやデビュー戦の緊張感を吹き飛ばす様な心踊ることがあった。
選手入場時、大歓声の中でスタンドから明也に声をかけた日本人がいた。
「明也、お前のゴールを見に来たぞ」
日本語だった。どこかで聞いたことのある懐かしい声と響きだった。明也が声した方を見ると、そこには自分の目を疑う人が立っていた。祖父の拓哉がサンチャゴ・ベルナベウのスタンドにいた。明也はピッチに整列した後もそこばかり見てしまった。
「じいちゃんがいる」明也は幻を見ているのかと思った。じいちゃんがアーセナルのユニフォームを着ている。「明也、また驚かせてくれよ」祖父の言った声は聞こえなかったが、口はそう動いていたのがわかった。
ロランドやフランチェスタと握手した事も心は別の場所にあったようだ。
明也はロランドから言葉をかけられたが、上の空でロランドの気分を害したようだった。「ボーイ、緊張してるのか?」ロランドはそう言って離れていった。
スタンドに祖父の姿を見た明也は、それだけで力を増したようだった。じいちゃんが見に来たのは、ホワイトボーイズU-15のゲーム以来かな。5年ぶりだ。明也は、恐怖を感じるというサンチャゴ・ベルナベウがホームよりも安心できるスタジアムに思えた。チャンピオンズリーグのピッチに16歳の少年が立っている。
ゲーム開始のホイッスルが鳴り響いた。
アーセナルのキックオフ。すぐにレアルの選手達が襲いかかるようなプレスをかけて来た。アーセナルはボールを下げていく。レアルの選手達の圧力は驚きだった。
「ロランドとフランチェスタの出すオーラは凄いな、こんなオーラは初めてだ」明也は、レアルの選手たちの圧力よりもロランドとフランチェスタを見て感心していた。ボールを持っているのは、アーセナルなのにアーセナルの方が追い詰められているような展開になっていた。レアルの選手達の動きは、ボールを持たせてカウンター狙いなんていうものじゃなかった。
「アクティブ・プレッシング」
レアルの選手達が生き物のように動いてアーセナルを追い詰めている。レアルの選手達はそれぞれのポジションで世界最高、一流ではなく超一流の選手達。その選手がチームプレーを追求していた。
(続く)