プレミアトップチームのレギュラー選手になるには、実力に加え、運という力が必要だと言われる。トップ昇格しても時の監督のスタイルや採用する戦術によって出場機会を与えられないこともある。機会を与えられても、結果を出せずにサポーターから容赦無い批判を浴びて消えてしまうこともある。アーセナルほどのトップクラブになると主力選手は、どのポジションでも世界屈指のトップレベルだ。バロンドール級の選手を移籍で獲得することもあり得る。トップチームに定着するには、世界のトップレベルの選手を押しのける力を持たなければならない。それは「運」ということで済まされるものではない。運の支配を超える力が必要であって、運だけに頼って勝ち残れる程、生易しいものではない。自チーム内の競争で終わらない。外にいる才能は、見えているものと未だ見ぬものとがあって無限に広がっている。
矢野明也も、偶然リオン・ファントマの目に留まってアーセナルに来たのだが、そこには、伝説のフットボーラーであるリオネル・メッシの再来と言われた、アンヘル・ジアブロが在籍していた。矢野明也はジアブロを押しのけてアカデミーに入団した。メッシを超える才能と言われたジアブロを押しのける程の才能があると見られたからだ。リオン・ファントマですらデビュー当時は、リオネル・メッシと比較されていた。その名前から、メッシの亡霊と言われたこともあった。7回のバロンドールを受賞して、メッシを超えたと評価されたのが、リオン・ファントマだ。そのリオン・ファントマ本人が自分を超える才能とだと感じたことから、矢野明也のアカデミーでの生活が始まった。
15才になった矢野明也は、アーセナルフットボールアカデミーU−17の中心選手に成長した。新シーズンは、アーセナルBに予備登録されるまでになっている。僅か3年でトップチームという頂上が見える位置まで進んでいた。
アーセナルに入団してからの3年間、明也はロンドンに留まらず、イングランド中に、ヨーロッパにその名を轟かせた。U−13スタートは最初の3ヶ月で通過して、U−14に上がり、その後毎年順調に昇格していた。
入団当初に明也が登場したスパーズとのU-13リーグ戦は、スパーズにとって、「ガナーズに悪魔が帰還した」とでも言うようなものだった。トッテナムスクエアは、凍りついた。またリオン・ファントマが現れたと。数週間前にホワイトハートレーンに現れた日本人の少年が、赤と白のユニフォームを着てピッチに立っていた。明也とホワイトハートレーンでプレーしたクリスもスパーズに明也の入団を掛け合いに言ったオヤジさんも見に来ていた。ゲームが始まるまでは明也に気が付かなかったが、明也にボールが出ると直ぐに気がついた。明也のドリブルの前ではスパーズは無力だった。明也にボールが渡ったら、必ずアーセナルには決定機がセットで付いていた。結果は、3ゴール、3アシストという明也のデビューショー。スパーズは、何も出来ずに矢野明也のイングランドデビューにおける引き立て役になった。
デビュー戦の後、チェルシー、フラム、ハマーズ等々、ロンドンのチームをことごとく撃沈した明也はリーグ戦で異次元の輝きを放った。そして、クリスマス前にはU−14に上がってしまった。U−13では、力が違い過ぎたからだ。U−14に上がった時出会ったのが、ケヴィンと呼ばれた少年、ケヴィン・クランツだ。ケヴィンは、中盤のプレーヤーで明也と同じ年、学校も同じ、2年飛び級している頭の良い選手だ。身長は、15才にして1m80㎝あって、1対1が強く、ボール扱いも大型選手と言うより、小さな選手の様な小回りも効く。U−13までトップをやっていたので空中戦も上手い。予測力と言うか兎に角勘がいい。危険も利点もそんな場所に必ず顔を出してくる。ピンチを救うし、いわゆる「ごっつぁんゴール」も多い。U−17の選手で最もトップチームに近いのが、矢野明也とケヴィン・クランツの2人だろう。
75-76シーズンが始まる。
(続く)