Uー17日本代表が年代別世界大会に進出したニュースは、矢野明也に九里ケ浜の日々を蘇らせた。だが、思い出したことがかえってどうにもならないことであることもわかっていた。明也はそれが昔の、子供の頃の思い出に過ぎないと自分に言い聞かせるだけだった。明也が5年前にアーセナルの入団テストを受けた時から、九里ケ浜は帰れない場所になっていた。それはこの先も変わることがないと。
アンヘルのことやUー17日本代表のことが矢野明也の心にダメージを与えたFIFAウィークが終わって、リーグ戦、そしてチャンピオンズリーグが再開した。
リーグ戦はホームハイベリーにフラムを迎える地味ながらもロンドンダービーだ。プレミアとチャンピオンシップを行き来するフラムは、アーセナルに力では及ばない。それでも、ダービーでアーセナルにひと泡吹かせようと8万人のグーナーで埋まったハイベリーにやって来た。オールドフラムがヤングアーセナルをやっつける。そんなマッチプレビューもあった。だが、ゲームが始まるとその記事が何の根拠も無い、ただの宣伝コピーでしかないことがわかった。
ゲームが始まると、ハイベリーのスタンドは歓声とゴールを祝う歌が鳴りやまなかった。開始1分のゴールに始まり、15分間で4回フラムのゴールネットが揺れた。明也の先制点とティエミーのハットトリック。ゲームはこの時点で終わっていた。前半終了間際に明也の6人抜きゴールが決まり5ー0となって、明也はお役ご免となった。
後半もアーセナルは得点を重ね終わってみれば、8-0。フラムはアーセナルの前に玉砕した。マンチェスターやリバプールがイングランドを制覇した時代もあった。だが、少なくともロンドンの王者はアーセナルのものだ。チェルシーには少しの間預けていただけで、既に返してもらった。そんなことをヤングアーセナルが宣言したようなゲームだった。
チャンピオンズリーグ前のプレミアを圧勝で乗り切ったアーセナルメンバーは、ゲーム翌日にはトリノに向かうBA機中いた。
スタジオ・デッレアルピ、ユベントススタジアムは落成から半世紀を経て古めかしさよりも、歴史の重さを感じさせるたたずまいを見せていた。
明也は初めて立つデッレアルピのピッチの感触を確かめていた。イタリアのスタジアムは、ピッチコンディションが悪いことで有名だった。サンシーロの禿げ上がったピッチは、かつて世界王者だったミランやインテルが衰退から復活出来ないクラブの状態を象徴していた。100年程前に輝きを放っていたグランデインテルやゴールデンボーイが今の状態を目にしたら、何かの間違いだと思うだろう。それ程今のミラノは荒れたイタリアの象徴だった。だが、ユベントスだけはずっとヨーロッパのビッグクラブとしてセリエAに君臨している。そんなイタリア王者ユベントスにヤングアーセナルは戦いを挑む。
明也はユベントス戦で期待していることがあった。ユニフォーム交換したいと思う選手が、ユベントスにいたからだ。此れまで明也はゲーム終了後にユニフォーム交換をしたことが無かった。
「リバラは先発するだろうか?」「ユニフォーム交換してくれるだろうか?」明也はユベントスとの一戦を前にそんなことを心配していた。
ジャンカルロ・リバラ。ユベントスのレジェンドプレーヤー。16才でセリエAにデビューしたのは20年以上前のことだ。リオン・ファントマ時代の末期に現れ「新時代のファントマ」としてデビューを飾り、セリエAを席捲した。マドリーやチェルシーなどのビッグクラブからのオファーを受け入れず、ユベントス一筋のフットボール人生を歩んできた。
ヴィオラ時代にアーセナルがチャンピオンズリーグを取れなかったのは、リバラのいたユベントスに勝てなかったからだ。アーセナルのスーパーマン、ヴィオラは中盤に君臨して空中戦やボール奪取、決定機演出など何でも出来た選手だった。ところが、リバラにだけは分が悪かった。空中戦で敗れての失点、簡単にマークを外されての失点、そんな記録ばかりが残っている。ヴィオラの天敵がリバラだった。リバラは代表でもイタリア代表、アズーリの10番を背負い、ワールドカップを2度獲得、それもキングペレ時代のセレソン以来となる100年ぶりの連覇で達成していた。ユベントスの英雄、イタリアのスーパーレジェンド、それがジャンカルロ・リバラ。
デッレアルピで行われたアーセナルのトレーニングは、ほとんど非公開で行われていた。
約2時間の練習が終わる頃、デッレアルピがライオンのような声をあげた。ユベントスの選手がバスで到着して、スタジアムの外にいたサポーターが大歓声をあげたのだった。カルチョの国の名誉を守り続けたビアンコネロは、イタリアの誇りだった。ここ数年マドリーの後塵を拝していると言ってもマドリーに直接対決で負けたことはない。「ロランドとフランチェスタは2人合わせてもリバラ以下だ」そんな話が当たり前に聞こえてくるのがトリノの町だ。「リバラが現役の内にもう一度チャンピオンズリーグのタイトルを」それがユベントスサポーターの願いだった。
ユベントスの選手がホームチームのロッカールームに入った時、アーセナルの選手はアウェーチームのロッカールームにいた。明也がシャワーを浴びている時、ケヴィンの声がした。
「明也早く出てこい。お客様が来てるよ」
「誰、ちょっと待ってもらって」
「早くしろ、お前が逢いたいと言った人だ」
明也は腰にバスタオルを巻いた姿でシャワー室から出て来た。明也が「誰が来てるの?」と言って、ロッカールームの入口に顔を向けるとそこには、強烈なオーラを放つイタリア人が立っていた。リバラだった。
「ソリー、ボーイ、息子に頼まれて君のサインをもらいに来たよ」リバラは28番のついたアーセナルのホームユニフォームを持っていた。
「9歳の息子が君のファンでね。自分の父よりも君の方が好きだとさ。息子には、ゲームが終わったら、矢野明也とユニフォーム交換するからそれで良いだろと言ったんだが、『アウェーだから、ホームユニフォームに貰ってよ』なんて言うから恥を忍んで来たよ」
明也は自分の目の前に本物のジャンカルロ・リバラがいることが信じられなかった。しかも、自分のユニフォームを持っている。明也は服を着てなかったことを忘れていた。明也が慌ててリバラに近づくとバスタオルが落ちて素っ裸になった。
「ボーイ、明日のピッチの上では慌てて良いが、今は慌てなくていいよ。でも息子に良い土産話が出来たよ『矢野明也の息子に会った』と」
「ソリー、ミスター」明也は急いで服を着た。明也はリバラの持って来たユニフォームにサインすると「ミスター、明日はユニフォーム交換してください」明也は只のリバラファンの少年の顔になっていた。「OK、ボーイ、こちらもそのつもりだ」そう言って、リバラはアーセナルのロッカーを出て言った。アーセナルのメンバーは、明也とリバラのやりとりをただ唖然と眺めていた。
「リバラの息子が明也のファンとは驚きだ、明也の息子はリバラファンだと言ってたね」「やめろ、ケヴィン、それは下ネタだ」
アーセナルにとって、ヴィオラ時代から引きずるユベントスとの負の記憶を断ち切るゲームの前に、イタリアのスーパーレジェンドが只の父親としてやって来たので緊張がほぐれていた。「レジェンドも可愛い子供の前では只の父親なんだよなぁ、明也もそう思うだろ」ケヴィンが納得したように言っていた。
76-77UEFAチャンピオンズリーグ決勝ラウンド。絶対王者レアル・マドリーが予選ラウンド2位通過によって、専門家の予想が割れたラウンド16となった。そんな中で、マドリーを破って1位通過したアーセナルと優勝経験のあるユベントス戦は、最も注目されるカードになった。
かつて、次世代のファントマと言われたジャンカルロ・リバラとファントマの再来、ファントマを超える才能と言われる矢野明也が同じピッチに立つ。メディアはユベントス対アーセナルよりも、リバラ対明也を伝える記事によっていた。フットボールがチームスポーツであることを置き去りにして2人の対決を煽っている。
明也はいつもながらの報道スタイルに辟易としながらも、リバラと同列に置かれ光栄に思っていた。只、いつもどおりにフットボールをすることだけを考えていた。イタリアの選手は、守備的な戦術に縛られているが、一人ひとりがとても上手い。イングランドの選手程フィジカルプレーをすることがないが、マッチアップする能力は世界最高水準にある。明也はずっとそう思っていた。だから、このゲームをとても楽しみにしていた。ゲームが始まれば、それも全て経験出来る。
イタリアのリアリスティックなフットボールはスペインやブラジルのような人気はない。それでも結果を出す。アーセナルがそんな本気のユベントスにどこまで通用するか?
イタリア時間8時45分アーセナルのキックオフでゲームは始まった。
明也の正面にリバラが立っている。
デッレアルピのスタンドは、凄まじいばかりのバナーがある。殆どがリバラを応援するものだった。スタンドもピッチの雰囲気もヤングアーセナルにとって完全アウェーだった。
ヤングアーセナルのパスワークはボールが糸で繋がれたように動いている。ピッチの中央で矢野明也とリバラが向かい合っている。互いに相手のオーラを感じていた。
明也にとって、今目の前にあるオーラは、初めてリオン・ファントマにあった時に見えたものと同じだった。ベルナベウでロランドやフランチェスタと対峙したときに見えたオーラよりもずっと大きなものだ。バロンドールを獲っていないリバラが、やっぱり最高の選手だった。その世界最高の選手が目の前で明也を見ている。明也はわくわく感を隠せないほど興奮しそうだった。
ケヴィンから明也にパスが入る。しかし、ボールを持ったのは、リバラだった。
「えっ?」明也の口からそんな声が出ていた。
デッレアルピの歓声が大きくなる。「明也、君はまだナンバーワンではないよ」そんな声が出ている。
リバラが一人でアーセナル陣内を進んでいる。その後をユベントスの選手がゆっくり押し上げている。リバラは攻める人、俺たちは守る人、それがユベントスの戦術だった。ユベントスの攻撃は、リバラ一人で構成から仕上げまで行う。リバラのワンマンレベルは、究極のその上にあった。
リバラのボール奪取からユベントスが先制。開始1分でヤングアーセナルが失点。スタンドの歓声は開始早々最高潮に達する。
世界最高に達したと言われた矢野明也のボールロストが失点に繋がった。ヤングアーセナルにとって過去に経験のない状況が生まれていた。リバラのプレーはメディアのつける形容詞を不要にした。只々「凄い」それだけだった。
「ボーイ、これがカルチョだよ。フットボールとはちがうんだよ」リバラは明也とすれ違うときにそんなことを呟いた。
「明也、力が入りすぎだよ」ケヴィンの声がした。そんな明也はリバラのプレーに感動していた。やはり、リバラは凄い。マドリー戦では感じなかったフットボールの世界を今体験していた。明也が現代フットボーラーで唯一戦ってみたいと思った選手が、キャリアピークだったころの様な輝きを放っている。明也自身のプレーがまだまだだという思いにもなった。そしてゲームが進むにつれて、ユベントスの選手たちの技術、個のプレーレベルは、イングランドにはないものだということも分かった。ブラジルやスペインの選手は分かりやすい技術を見せるから、対峙しても予測できる。特にブラジルのクラックは派手なプレーを好むから観衆受けする。イタリアの選手、特にユベントスの選手は派手なことをやらない。ディフェンスも中盤も最前線もみな異常にファーストタッチが柔らかい。そして軸がぶれない。だからマッチアップがとても強い。プレミアリーグでは、最高の技術を誇るアーセナルの選手たちが、ユベントスの選手にあしらわれている。リバラ以外の選手も他のチームに行けば皆中心選手になれるはずだ。しかし、明也はカルチョの世界にいるユベントスの選手達がかわいそうにも思えた。
フットボールの戦術は、昔からイタリアによって広められることが多い。でもそのイタリアの選手たちは、評判の悪い「カテナチオ」を平気でやり続ける。そんなことしなくても十分戦えるのにそれをやる。得点することより失点しないことを優先するからだろうが、「1-0の美学」が染みついている。もっともっと点を取ることを優先すればいいのに、そんな思いだった。
ゲームは後半に入っても、ユベントスの選手たちは、ゲームコントロールを繰り返す。リバラはその中で虎視眈々とチャンスを窺っている。リバラの傍には明也が離れずついている。
「ボーイ、そんなに守備ばかりしていると点が入らないぞ。このままだと息子に自慢できるよ『Phantom through』と言うのを見せてくれよ」リバラが挑発するように話しかけて来た。
「ミスター、ユベントスの選手があまりに上手いのでリスペクトし過ぎました。でもこれからですよ」明也はレジェンドリバラに対等に話していた。「楽しみだね」リバラは不敵な笑みを見せた。
ゲームは、残り15分となって、ユベントスのゲームコントロールは、悦に入ったように凄みを増していた。ヤングアーセナルは何もできないでいた。只、時計の針だけが進んでいく。そして、ヤングアーセナルに疲れの色が大きくなってきた。この時を待っていたようにリバラがボールに絡む。リバラがゲームの仕上げに入った。リバラに入ったパスはミリ単位の精度でアーセナルの守備、矢野明也のマークを外すものだった。リバラが、独走する。キーパーとの1対1を上手いとしか表現できないループで破るとボールはアーセナルゴールに収まった。ゲーム、そしてラウンド16を決定づけるユベントスの2点目が入った。
明也は只呆然とするだけだった。
(続く)