U−10年代の選手がU−12のゲームに出場、 一回り小さい体で上の年代の選手を全く問題にせず、攻撃を組み立て、ハットトリックに加え、殆どのゴールに絡む活躍をした矢野明也。3年振りに開催されたダービー前日のU−12のゲームをワンマンショーにした選手の名前は街中にも知れ渡った。
レイソロスタウンにホワイトボーイズの宝物が住んでいることが周知の事実となり、レイソロスタウンでは、抑えようのない怒りが広がった。そんな周りの状況に矢野は、レイソロスタウンに居辛くなっていく。レイソロスタウンの人々は、数年前からホワイトボーイズのジャージを着て自転車で東に向かう体の小さな少年を知っていた。目の前を通る度にからかっていた少年が、矢野明也だった事にショックを受けた。当時、レイソロスタウンの人達は、いじる気持ち半分で「裏切り者」と呼んでいたが、本当に裏切り者と呼ぶようになった。
矢野の家族も次第にレイソロスタウンに住み辛くなってしまい、矢野はそんな家族を見て、幼な心で悩み始めていた。
矢野は、両親と2つ違いのお姉さんがいる4人家族。今は3人でレイソロスタウンに暮らしている。矢野のお父さんは、技術者で日本には殆どいなかった。矢野がホワイトボーイズに入団した頃からミラノに赴任していた。
クリスマスが近づき、2070年も幕を閉じようとしている頃、矢野のお父さんが休暇で帰ってきた。去年までは、ミラノの事やカルチョのことで盛り上がっていたが、今年はそうならなかった。明也がダービー前日のゲームで大活躍した話。そしてそれがレイソロスタウンの大ニュースとなってしまい、矢野の家族がレイソロスタウンで冷たい仕打ちを受けるようになったこと、そんな話が続いた。
矢野の父は、明也の活躍を素直に喜んだが、レイソロスの親会社に勤める自分が、息子のホワイトボーイズ入団を止めなかったことを悔やんでいた。ミラノに家族を呼ぶか、それとも、家族だけ実家に戻すべきか、そんな選択肢が頭をよぎったが、口にはしなかった。来年7月に赴任地変更の話が内々で進んでいる。候補地は、ロサンゼルス、ヒューストン、そしてロンドンだった。明也の好きなプレミアリーグが生で見られ、子供の教育環境も世界一整備されたロンドンならば、家族を呼ぶのに都合が良いはずだ。だが、ロンドンで決まっているわけではないので解決にならない。
明也本人は、ニューライジングサンの近くにある祖父の家で暮らしたかったが、自分からは言い出せなかった。矢野明也の祖父、拓哉は、ホワイトボーイズ伝説のフットボーラー矢野晃の息子。だから、明也がホワイトボーイズに入団して1番喜んだ人かもしれない。その祖父は、ライジングサンに行って明也を見ることが日課になっていた。明也のプレーは、自身の父、晃を彷彿させる癖の様な動きがあり晃と明也が重なった。幼い頃、父晃とボールを蹴っていた頃を思い出しては眼に涙を浮かべていた。だから祖父は、明也のことをこれ以上ないくらい可愛がっていた。祖父は自分の息子がレイソロスの親会社技術者となって働き、レイソロスタウンに家族を残して海外勤務することに反対だった。レイソロスの親会社に入社したこともいまだによく思っていない。そんな祖父と父の関係を案じてか、明也は、自分から祖父の家に行きたいと口に出来ないでいた。
結論が出ないまま時が過ぎ、2071年の年が明けた。レイソロスタウンを自転車で東に向かう少年の姿は見えなくなってしまった。明也は、母の車でライジングサンに行くようになり、学校が休みの期間中、祖父の家から自転車で行った。
この後、矢野明也がレイソロスタウンに帰ることは無かった。
(続く))