ホワイトボーイズが全国的に認知される前から、行われたトレーニングマッチは、ずっとホワイトボーイズが完勝だった。初めて行われたU-13(根元和、真原仁は、まだU-12時代に参加)から始まったのだが、当時から矢野明也が不在の時に行われ、根元和が、矢野明也と間違えられていた時が最初のゲームだった。
あの時からホワイトボーイズは、一方的にボールを支配し、典型的なワンサイドゲームになっていたが、年代が進んでも内容は同じ、いや、少しずつ差は開いていたかもしれない。
今のU-15ナショナルチームは、アジア地区のチャンピオンになり、夏の大陸間選手権でもベスト8に入るほどの世界的には強豪チームの部類に入る。だが、ホワイトボーイズに対しては、まったく何もできずに終わってしまう。元々代表に選ばれる選手は、「技術」「メンタル」「考動」のどれか1つが国を代表するレベルにあるものだ。だが、このUー15年代に関しては、ホワイトボーイズが全てにおいて圧倒していた。Uー15ナショナルチームは世界ベスト8であり、この年代のレベルが他年代の代表に比べて劣っている訳では無かった。新未来世代の子供達が特別なだけだった。
ホワイトボーイズ新未来世代の選手をベースにした代表チームを作っていたら、もっと凄い結果が出るかもしれない。それは、だれの目にも明らかだった。だが、ホワイトボーイズ代表の石木が許さなかった。九里ケ浜の人々も、何よりも新未来世代の子供達も望んではいないことだった。
この年代は、早くホワイトボーイズのトップチームに上がり、ニューライジングサンのピッチに立ってプレーすることを目指していた。そして、本気でホワイトボーイズトップチームをプロのトップリーグに昇格させ、そこでチャンピオンになることが夢であり、目標だった。かつて一緒にプレーした矢野明也の夢が、今のホワイトボーイズの新未来世代には乗り移っているようだった。そして、いつか、インターコンチネンタルクラブチャンピオンシップのタイトルを獲ることを夢見ていた。それは代表のタイトルよりずっと重いものと感じていたからだ。
そして、いつからか言われるようになった。「ホワイトボーイズ魂」と言うクラブの精神が、新未来世代にははっきりと宿していた。
ロンドンの矢野明也は、ホワイトボーイズの仲間達が、リーグチャンピオンになったことを既に知っていた。明也は、日々ホワイトボーイズのサイトをチェックして、サイトに掲載された仲間達の活躍を見ていたからだ。明也は、九里ケ浜から聞こえてくる仲間たちの活躍が嬉しくてならなかった。そして、自分がそこにいないことが寂しくてならなかった。「和も仁も良も上手くなったんだろうな」「会いたいな」九里ケ浜から遠く離れた場所にいても、明也の心は九里ケ浜にあった。ニューライジングサンにあった。でも明也自身から仲間達にコンタクトする手段は無かった。
そして、そんな明也の思いとは、正反対の動きが発表された。矢野明也が、U-17イングランド代表候補として選出されたことが発表された。この夏、父直哉が、ロンドンのサイエンスアカデミーの教授に転出し、イギリスの市民権を取得していた。その結果、子供の明也もイギリスの市民権を特例取得することになった。あっという間の出来事で、アーセナルにも寝耳に水の発表だった。
この報道は、日本にもすぐに伝えられ、九里ケ浜の町を駆け巡った。ずっとアンタッチャブルにしてきたはずの、ロンドンにいる矢野明也が名門アーセナルに所属し、イングランドを代表するすごい選手になっていることが公になってしまった。
(続く)