ユベントスはリバラ2点目のゴールによってゲームを完全に終わらせる段階になっていた。ユベントスはアーセナルからボールを奪うと決して急がず規則的に並んだ陣形でボールを散らしながら繋いでいく。ゲームをリードしている余裕も手伝って、ミリ単位の精度で早いパスが繋がれている。アーセナルのプレスが届かないポジションにズレながらワンタッチ、ツータッチでボールが動いている。個々のボールタッチはほとんどミスがない。アーセナルが無策に飛び込めばいとも簡単にいなされ、かわされてしまう。ヤングアーセナルがフットボールのパスレッスンを受けている様だ。
「やっぱり、イタリアの選手は上手いな」2点目の失点で茫然とした明也だったが、ユベントス選手の動かすボールが気持ちよさそうな顔を見せている気がして、失点よりもボールに喜ばれるユベントスのプレーに悔しさがこみ上げて来た。
「ケ・ヴィーン」明也は突然声を上げた。だが、声はボールを追い回すケヴィンまで届いてない。ケヴィンは反応することなく、ボールを追い続ける。ユベントスの選手が如何に上手いと言っても、この時間になっては仕掛けて来ない。それでもケヴィンはユベントスが動かすボールを少しだけ遅くした。
ヤングアーセナルは、若さという経験不足だけが頼りだった。マリーシアとは正反対にあるアーセナルの一途なボール追いは、ユベントスのパス回しの前に時間とスタミナを浪費させられる。愚直さだけで百戦錬磨のユベントスに対抗できるほどフットボールは甘くなかった。
明也はゲーム中ずっとマークしてきたリバラから離れてプレッシングに加わった。
アーセナルがボールを奪うことが出来ても、その瞬間が最も危険な瞬間になる。ユベントスのプレスバックを受けるからだ。その昔「ゲーゲンプレッシング」と呼ばれたスタイル、反射的プレスからのカウンター。3点目の失点は致命傷になる。そんな思いがヤングアーセナルを覆っている。このままハイベリーに帰った方がまだ良いのではないかと。明也とケヴィンもそんな思いを頭にしながらも、只ボールを追いかけている。
リバラを擁する試合巧者のユベントスは、巧みにボールを支配し続けて隙を見せない。ヤングアーセナルの愚直なプレスは言葉通り、愚かさだけが目立っている。
デッレアルピのスタンドは勝利の大合唱が鳴り響く。
アディショナルタイムに入った。残り時間は3分だ。遂に矢野明也明也を擁するアーセナルに土がつく時が来たようだ。スタンドもベンチもピッチにいる誰もがそう思った。そんな空気がデッレアルピを覆った時に突然雨が落ちて来た。スタンドからの視界がなくなるほどの雨だった。その雨がボールを保持するユベントスにイタズラをする。
ユベントスの選手が見せていたミリ単位のボールタッチに少しだけズレが見え出す。気持ちよく動いていたボールの表情が変わっている。ボールがシフトダウンしている。明也にはそう見えた。2月のこの時期にこれ程のスコールは過去に例がなかった。風はアルプスから吹き付ける北風では無く、遠く南の地中海から来る南風の様だ。明也はニューライジングサンにいる様な錯覚に陥った。「潮の香りがする」
天のイタズラだった。
ケヴィンのプレスがユベントスのパスを狂わせ、行き先の定まらないボールが明也の前に出て来た。ヤングアーセナルにスイッチが入り、一斉に攻撃の動きに変わる。しかし、ユベントスの選手も素早い切り替えでディフェンスに入る。ユベントスの選手が明也に一気に寄せてプレスが掛かった。だが、明也にこれ程フリーでボールを渡したら、如何に優れたディフェンス力を持つユベントスのプレスも只の動かない障害物の様だった。ユベントスの選手が矢野明也の前で只の石の置物になった。
視界の開かないスタンドからは、オレンジ色のユニフォームを着たたった1人のシルエットだけが動いている。次にスタンドから確認できたのはゴールインの合図をするアシスタントレフリーの動きだった。
ユベントスがアーセナルにアウェーゴールを献上する。勝利の大合唱が沈黙に代わり、デッレアルピの屋根に落ちる雨の音が響く。アーセナルの選手がゴールした明也に駆け寄り祝福するが、明也はボールを持ってセンターサークルに急いでいた。ボールを中央にセットすると自陣に戻る。
リバラが苦笑いしている。
「ボーイ、驚いたよ、天が君に味方した様だ」
アディショナルタイムに入っていたゲームは、残り1分を切っていた。ユベントスは、セカンドレグの戦い方を微妙なものにするアウェーゴール献上によって冷静さを失った。それでも残り時間は僅かだ。リバラがユベントスのメンバーに檄を飛ばしてゲームを終わらせようとしていた。
完璧な勝利を目前にしていたユベントスにとってこの1分はどれ程の時間に感じただろうか。ヤングアーセナルは諦めなかった。明也がボールを追い詰めていく。リバラが受け手になろうとして明也の近くで味方から見える位置に顔を出そうとしていた。
リバラにパスが出た。
しかし、そのパスは、ユベントスのやり続けたミリ単位の精度を持つパスではなかった。リバラの向かった位置から外れてしまった。ボールの進む場所に戻るリバラよりカットを狙っていたケヴィンが早かった。ケヴィンはダイレクトで明也にパスする。レフリーが時計を見ている。時間が無い。明也の位置は、ユベントスゴールから30m付近。明也にボールが渡った時、ユベントスの選手はリバラを除いてプレーウォッチャーになっていた。
明也は、ワンタッチでボールを浮かせると詰めてきたリバラを避け、体を捻る様に飛び上がった。明也は宙を浮くように横になって横向きのバイシクルを打った。タイムアップの笛が吹かれようとしていた時に打たれたシュート。それは明也がかけたドライブ回転によって放物線を描いてユベントスゴールに向かった。ドライブ回転が無かったらクロスバーを越えていたかもしれないボールはユベントスゴールネットを揺らして水飛沫を上げた。
天がイタズラしたアディショナルタイム。矢野明也の同点ゴールはユベントスを絶望の淵に追いやった。完全勝利直前から一転して負けに等しい2失点ドロー。
「フットボールは怖いスポーツだ。天は矢野明也に機会を与えた。そして矢野明也は、その機会を逃さなかった。だが、まだ敗退したわけでは無い」リバラの独り言は空しく響いた。
それでも、リバラには諦めた様子など微塵も無かった。
(続く)