16歳の天才フットボーラーが、「世界王者は過去の遺物に過ぎない」とこれまで誰も言葉する事がなかった真実の姿をサンチャゴ・ベルナベウで、そしてハイベリーで現実のものにした。それはフットボール史上に残る大事件だった。
世界中の子供たちが憧れるバロンドール3年連続受賞のクリスト・ロランドが、この16歳の少年の前でフットボールのレッスンを受けてしまった。天才中の天才と呼ばれ世界最高、史上最高MFの称号を誇ったアンドレア・フランチェスタが、これまで経験したことのない異次元の技術とスピードを体験させられた。史上最高のゴールキーパーとして長くゴール前に君臨したレフ・ツェフォンは幻と戦ったとしか思えなかったはずだ。超一流の更にその上に位置したレアル・マドリーが、16歳の少年の前では並以下のチームになってしまった。アウェーサンチャゴ・ベルナベウで5得点して世界を驚かせた選手が、ホームハイベリーではチームの中の1人としてレアル・マドリーを封じ込んだ。自らがあげた唯一つのゴールによってマドリーを瀕死の状態にした後に。
自転車の競技に1人だけバイクが入っていたらこうなるだろう。レランドやフランチェスタは時速100キロを超す自転車競技の最高レベルだが、矢野明也は時速350キロを超すバイクのスーパーレーサーだった。3倍以上のスピードでプレーしていた。だが、それはスピードだけでは無かった。コントロールされたボールは誘導装置がついている様に矢野明也の意思の通りに動き続けた。
ハイベリーでのゲーム後、レアル・マドリーの監督は解任された。監督に原因があったというのは酷だ。采配ミスも選手選考ミスもコンディション調整ミスも無かった。だが、フローレン・ピレス三世は許さなかった。歴史的敗北を喫した監督をそのまま続けさせるのは、敗北を受け入れることになるからだ。誇り高きフローレン・ピレス三世の辞書に敗北という文字は存在しない。
16歳の少年が持つ計り知れない才能に世界が注目して、今年のバロンドール候補者に追加すべきだと声が上がった。昨シーズンの実績と今シーズンの実績から、今年のバロンドールは、ロランドとフランチェスタのどちらかだと言われていた。誰もがそれを当然だと見ていた。ゴールという結果からは、ロランドが優位だったが、フットボーラーとしてのプレーの次元で言えば、フランチェスタが上だと押す声も多かった。ところが、チャンピオンズリーグ4節終了後、誰が真の世界最高なのかを明示していた。
矢野明也のプレーは、かつてメッシやファントマが言われた「別の星からやって来た選手」という表現すら緩いと思えた。数世代先まで進化した、革新的な進化を遂げたフットボーラーが、この時代、この世界に舞い降りたものだと言っても言い過ぎではない。バロンドールというタイトルが世界最高の選手を選ぶタイトルならば、矢野明也がとるべきだろう。しかし、バロンドールは、その年の最優秀選手を決めるものである。チームがどんなタイトルをとったかで決まるものだ。だから、矢野明也にはその資格がない。
矢野明也にとって、個人のタイトルは興味が無かった。アンダー世代、U−17の時代もその前の時代も矢野明也は採点競争のように選ばれる個人タイトルは全て事前に辞退を申し出ていた。
矢野明也はルーツが日本にある。それが理由なのかわからないがオーバーなアピールをしない。いや、アピールを言葉でする事がない。プレー以外で自分を表現しない。日本人の持つ謙虚さが根底にあるのかもしれない。だから、矢野明也は採点競争の個人タイトルをずっと持っていない。得点王やアシスト王という記録を除いて。
プロになった今、周囲はタイトルを期待するだろう。しかし、矢野明也はキャリアの中でこの期待だけには応えることが無かった。バロンドールを7回とったリオン・ファントマの記録を超えることも可能だったのに。
矢野明也の登場によって世界の注目が集まってきたアーセナルFC。アーセナルを包みはじめた環境は時計の針がリオン・ファントマ時代に戻ったと錯覚しそうだ。しかし、今はリオン・ファントマ時代よりも報道陣の数が圧倒的に多い。各国のフットボールメディアが特集枠を割いて矢野明也を伝えた。
「パンデミック」爆発的に感染が広がる新型伝染病が生まれた。表現には悪意を感じさせたが、対処方がわかっていない新種のフットボーラーは、世界を揺るがせた。
アーセナルスクエアは毎日サポーターと観光客で溢れていた。矢野明也を一目見ようと集まっている。矢野明也は言葉を発することなく、笑顔を見せるだけ。それだけで時間の許す限りサインに応じている。矢野明也の傍には、いつもケヴィン・クランツがボディガードのように控えていた。
「明也に触っちゃダメだよ。明也は英語しかわからないからね」
「ケヴィン、嘘言うな」
明也が英語で言っている。ケヴィンの話はその場のアドリブでアーセナルスクエアの観客をはぐらかす。日本の報道陣を見つけるとケヴィンのガードは固くなる。日本の報道陣が怪しい記事を出すことをよく思わないケヴィンは、明也への接触をさせない様にしていた。おかしなことに案外これがアーセナルの報道管制よりも効果があった。
矢野明也のプレミアデビューをいつにするか、アーセナルFC至近の悩みだった。次リーグ戦はアウェーアンフィールドでのリバプール戦で、その後代表ウィークで11月後半までリーグ戦は休止する。
代表選出されていない矢野明也はトレーニング期間だった。アーセナルスクエアで代表未選出組と通常トレーニング予定だった。代表ウィーク明けは、ハイベリーでのチェルシー戦、更にミッドウィークにチャンピオンズリーグ第5節メンヘングランドバッハ戦があった。
「明也、リーグ戦に出たいだろ」ケヴィンの問いかけに明也が答える。「早く出たいよ。アンフィールドに行きたいね。あのスタジアムは雰囲気が好きなんだ。
リバプールとのリーグ戦の遠征メンバーに矢野明也の名前は無かった。アーセナル監督のジル・キャンベルはターンオーバーを忠実に守り、チャンピオンズリーグ4節を戦った主力メンバーをベンチからも外していた。ほとんどがプレミアデビューという選手たちが先発メンバーだった。そのメンバーの中に、ケヴィン・クランツの名前もあった。矢野明也よりも先にケヴィン・クランツがプレミアデビューを果たすことになった。
アウェーチームにとって魔物が住むと言われるアンフィールドは、ホームリバプールにパワーを与える。アウェーチームはどこか普段の力が出ない。そんなアンフィールドでのリバプール対アーセナルは、ご多聞にもれず激しいゲームながら、ホームリバプールが、2点差をひっくり返し4対2と言う結果になった。
新人中心のアーセナルは、ケヴィン・クランツの活躍から2点を先制するが、その後守りに入ってしまい、後半4失点と残念な結果となった。グーナー達は、リバプール相手に2点をリードしたことは評価したが、結局酷い負け方をしたことに怒りを覚えていた。ターンオーバーをしたジル・キャンベルに向いた矛先が爆発寸前だった。
「明也を出せ!」グーナーの希望にこたえないキャンベルは、不要だとの声も上がった。