たった20分のハーフコートゲーム。選手をチェックするアーセナルアカデミーのスタッフと思われるのは8人。各コートに1人しかいない。「何を見ているのだろう」明也は疑問に思った。まだほとんどプレーに絡めないまま5分が過ぎて、チームは2失点。このままなら荷物をまとめて帰宅する事になる。
アカデミーに入団して、プロフットボーラーへの道を開く。そんな思いの子供が100人も集まったテストは激しい闘志と極度な積極性をアピールする展示場だった。12、13才の少年たちが未来を開こうとするこのピッチで起きているのは、技術の闘いというより、気持ちの闘いだった。些細なズレがミスとなり本人のピンチを招く。いつしか慎重さが消極性と弱気を呼び覚まし、負のスパイラルに陥ってしまう。ミスとズレが繰り返されて致命傷を防げなかった方のグループが失点という代償を払う事になる。
明也は、他の選手達が積極性の塊になっている姿を感心しながら見ていたが、ボールと選手の流れを冷静に観察していた。「中央に道が出来ている」
ようやく明也にボールが繋がったところにマーカーが直ぐに寄せて来た。1m80㎝はありそうな選手。どう見ても大人、本当に同じ年かなと思った。明也はボールをフリーの味方に預けてチェックをはぐらかす。だが、そのままパスを送った味方に近づき、ボールを受けると中央をドリブルで上がる。最初にチェックに来た選手と更に別の2人の選手が寄せて来る。
3人に囲まれたら、ボールロストするリスクを避けるのが慎重さであり定石手順であろう。2点ビハインドという状況は、明也をリスクに挑むことを選択させた。このワンプレーに全てを出すつもりで。
「中央に道が見えるから行ける」
チェッカー3人は、完全に矢野明也を囲んでボールを奪おうとしている。矢野明也は囲まれたはずだった。だが、矢野明也は、3人の囲みから消えていた。正確には、囲んだ3人には消えた様に見えた。外から見ていたアカデミーのスタッフには、囲んだ3人が、止まっていて、矢野明也だけが動いている様に見えた。矢野明也は、既に先を進んでいる。抜かれた3人は、ただ、呆気にとられている。我に返って矢野明也を追い始めるが、既にトップスピードに入った明也は、次のマーカー2人を唯すれ違う様に抜き去った。
矢野明也が動く空間と矢野明也を止めに来る選手がいる空間は、別の時計が動いている、別の世界になってしまった様でもある。最終ラインのディフェンダー3人が中央に絞って来る。矢野明也が小さなキックフェイントを入れた様に見えた直後、アカデミーのスタッフが見たものは、キーパーと1対1になった矢野明也だった。3人のディフェンダーは、水中歩行をしているような動きにしか見えなかった。矢野明也の前で、3人は手足に見えない重りを付けられてしまった、いや、石にされたのかもしれない。そうとしか思えなかった。
矢野明也と1対1になったゴールキーパーは、両腕を広げて間合いを詰めている。重心を悟られない様に動き、その速度はさすがにジュニア世代のものでは無かった。アカデミーの選手がやっていたからだ。それは、下の年代に絶対失点しないという気持ちが出ていた。矢野とキーパーの距離が2mを切ったところで、矢野が左肩に力を入れた。するとキーパーはピッチに足を取られる様に倒れてしまう。自ら重心を知らせる様に。それでもキーパーは、諦めず手を伸ばしてボールを弾こうとしている。
しかし、ゴールキーパーが手を伸ばした先にボールは無かった。矢野明也もそこにはいなかった。キーパーには、矢野が消えた様に見えただろう。そして、矢野をチェックに行った選手達が我に返ってゴール方向に向くと、矢野明也は、ゴール内からボールを抱えて出て来るところだった。
明也のソロプレーが終わった。一瞬で永遠の時間が経過したようだった。
(続く)