九里ケ浜の海は、荒れ出すと手に負えない。ずっと昔から海と陸が戦う場所だった。いつからだろう、温暖化や海流の変化によってか、海が優勢になってしまった。砂浜の広さはピーク時の半分以下になって、今も減り続けている。防潮工事が繰り返されているが、勝ち続ける海は、海岸から砂浜を奪い、夏の海水浴客を奪った。ところが砂浜の浸食によって波乗りにはいい条件が整って行った。
そんなサーフィンのメッカ(古い表現だ)になった海辺の田舎町にあるホワイトボーイズのホームスタジアム、ニューライジングサン。そのフットボール専用スタジアムは、15000人以上収容出来る。2045年に完成したニューライジングサンは、レイソロスのドリームフィールドよりも10年以上前に完成したスタジアムだ。
30年前、ホワイトボーイズで育った選手が、若くしてヨーロッパのクラブに移籍した。その選手がもたらした多額の移籍金は、ホワイトボーイズにニューライジングサンを与えることになった。ホワイトボーイズ練習場、ライジングサンは、50年以上の年月をかけて完成した。その後ホワイトボーイズに現れたこの選手は時代を切り開き、ヨーロッパに行き、アジア人初めてのバロンドールだと言われ続け、5年連続、合計7回も最終候補者にノミネートされたが、結局、バロンドールを取ること無く、無冠に終わった。その選手は、石木克人と言う元代表選手だ。石木は、一瞬芸と言われた閃きの技で、中盤に君臨し、攻撃を組み立て、決定機を演出した。毎シーズン50以上のアシストを記録、シーズン70アシストという驚きの記録は、今も破られていない。スタイルは、既に絶滅したはずのクラシカルな10番型のトップ下で、20世紀のレジェンド、マラドーナの再来と言われた選手だ。
今年55歳になる石木は、ホワイトボーイズの代表とトップチームヘッドコーチを兼任している。ホワイトボーイズが100年掛けて積み上げた施設というハードもテクニカルスタイルというソフトも石木の功績によって花となり、実となった。トップチームは強いチームではないが、見て楽しい。それが、テクニカルスタイルであり、ホワイトボーイズスピリットだからだ。楽しくなければフットボールではない、技術とアイデアを磨かなければ楽しくない。頭と体の技術の無いフットボールはフットボールと言わない。
ホワイトボーイズのフットボールスタイルは、矢野晃の時代も、石木克人の時代も、そしてこれかも、ずっと変わらない。いつか来るであろう矢野明也の時代も、きっと変わらないはずだ。
もう直ぐ100周年を迎えるホワイトボーイズは、ずっとこの地で楽しむフットボールを実践して来た。未来もずっとこの地にフットボールの夢を繋いでいくだろう。約束の場所、ニューライジングサンに集まって。
九里ケ浜から吹く東の風は、町に潮の香りを運び続け、穏やかな時を刻む。ニューライジングサンで起きる非日常的な熱狂は、年間で考えたら何日でもない。日常の騒めきは、少年少女スポーツ教室で子供たちから湧き上がる笑い声くらいで、海が演奏する波のメロディに消されるレベルだ。だが、毎日、ライジングサンで起こる笑い声は、波のメロディに絶妙なアクセントをつけている。矢野明也がその地に着いてから、毎日、潮の香りと波のメロディ、そして、ライジングサンで起こる笑い声を聞いて過ごしていた。
矢野明也が潮の香を感じなくなった時、それは明也にもわからなかった。
(続く)