矢野明也は、成田発、ロンドン行きのボーイング797機中にいた。
矢野明也にとって自身2回目となる海外旅行は、12才の少年にとっては、好奇心を誘うものだっただろう。でも今回は、明確な目的があったので旅行と言えるものではなかった。もしかしたら、日本に帰れなくなるかもしれない。ライジングサンでボールを蹴ることができなくなるかもしれない。
窓から見える景色は、雲が作り出した真白な大平原だった。彼方に雲と空を分ける境界線が見えている。ニューライジングサンの最上階に上がれば、東に見える水平線、南北西の三方には地平線が見えた。しかし、窓の外に見えるのは、青い空と雲だけだった。これから行くところは、フットボールの母国イングランド。1年前と同じ道のりで向かっている。今回は、前回と違ってただロンドンに行くのではない。行先はノースロンドンにあるアーセナルフットボールアカデミーだ。
今回のロンドン行きを、明也は最後まで決断出来ず、躊躇っていたが、結局、祖父の言葉が、明也の背中を押すことになった。
「白と赤のユニフォームを着た明也が、ハイベリーで得点するところが見られたら、そんな嬉しいことはないよ」「ガナーズが好きだったひいじいさんも明也がハイベリーに立つ姿を見たいと思っているよ」
最後は明也自身が決めたが、ロンドンに行くことだけが決まったに過ぎなかった。アーセナルアカデミーのテストを受けた後のことを、明也はまだ決められずにいた。
ロンドンヒースロー空港に着くと、到着ゲートには母と姉が明也を待っていた。1年ぶりに会う2人は当たり前ながら変わっていない。ところが、移動中に見せる仕草は、すっかりイングランドに溶け込んでいた。
ヒースロー空港から地下鉄で東に向かう。去年は、空港から南に向かいケンジントンからチェルシー経由でロンドン中央に行った。今回のルートは違っている。ロンドンの北側を通るルートは、直接ハイベリーヒルに向かうコースを行っている。「まっすぐ家に行くのかな」明也の予想を裏切り、母と姉は途中下車して地上に出た。そこは、木々に囲まれた大きなオレンジ色の道路があった。オレンジ色の道路は、ツギハギだらけで妙な感じだった。だが、明也は、木々に囲まれた道の先には何かがあるような感覚を持った。道の先には天井に大きなアーチがかかった巨大なスタジアムが見えている。
「エンパイアスタジアムオブウェンブリー」
フットボールの母国イングランドの聖地は、ロンドンの曇り空を明るくするように堂々とそびえていた。
母と姉は、明也の闘志を引き出そうとわざわざウェンブリースタジアム経由で北ロンドンの自宅に向かったようだ「去年明也は来られなかったから寄ってみたのよ」「私達は、今年のFAカップを見たから初めてじゃないけどね」姉が得意そうに言った。
いつかこのピッチに立ちたいと夢に見たウェンブリースタジアムは、明也の闘志をかきたてた。ハイベリーとは違う威厳があるウェンブリーが、明也をイングランドに引き寄せようとしている。
(続く)