ホワイトボーイズは、この町に出来た最も古いクラブで、古くはホワイトボーイズがこの町を代表していた。ホワイトボーイズから巣立ったプロ選手は数え切れない。過去に代表選手も出している。そんな育成の成果が、ホームスタジアム「ニューライジングサン」になった。練習施設もホワイトボーイズは天然芝と人工芝のフルピッチがそれぞれ1面、フットサルコートが2面とれる室内練習場もあった。レイソロスは、倍の広さの施設を保持していたが、練習生を多数受け入れていたので空きは無かった。メインスタジアムは親会社が持つプロのトップチームのリーグ戦会場になる事もあったのでジュニアが使うことは無かった。
ホワイトボーイズのU-7に所属する選手は25人、それ程多くない。各年代に100人以上の選手がいるレイソロスとは大きな違いだ。
矢野は、週4日の練習と週1日のゲームに、欠かさず参加していた。晴れの日は、勿論だが雨の日も風の日も自転車で通っていた。
U−7の練習は、ボールを使った遊びがほとんどでボールを扱う技術とゲーム形式のものばかりだった。一番背の低い矢野は、体力的なハンデは明らかだった。矢野より20センチ以上背の高い子供ばかりで中には30センチ以上背の高い子供もいた。とても同じ年と思えなかった。でも、矢野はボール扱いが飛び抜けて上手かった。U−7の中どころか、U−12のメンバーと比べても負けてない。矢野より5歳上の年代と同じ事が普通に出来た。これは誰かが教えたものではなく、天性のものだろう。レイソロスの子供教室だけでこんな技が身につくはずがない、自らが持っていた才能であり、自らが身につけたものだった。
矢野の年代は、2060年生まれ。この年代は、ホワイトボーイズの当たり年となる年代で、矢野以外にも優秀な子供が集まっていた。それでも、この時はまだ7才になろうとしている頃だったのでその片鱗を見せたのは、矢野だけだった。
矢野は、自分の膝の高さ程もあるボールを実に見事な技で運ぶ。7才の子供たちは、フェイクに引っかからない。ボールばかり見ているから。だから矢野はボールを左右前後、上下に動かす。小刻みに動くボールに対峙する子供たちはボール目掛けて飛び込んでくるが、次の瞬間、矢野とボールだけが進んでいる。相手の重心がかかった足の脇をボールが通過していた。密集は矢野の遊び場になった。2人、3人、4人と矢野が持つボールを蹴り出そうとする。だが、ボールは矢野の足と糸で繋がっているように離れては戻り、密集が切り開かれていく。
それでも身長1mの矢野は、ボールを蹴る力は弱かった。イージーボールの競り合いも跳ね飛ばされる事が多かった。 7才になろうとする矢野には、他の子供たちが持っていないボール技術が備わっていた。
矢野は今日も自転車で東に向かう。春から夏に変わろうとする5月、海はサーファー達で一杯になっている。だが、5月の第1日曜日、町にダービーのシーズンがやって来た。会場は、ニューライジングサン。ホワイトボーイズのホームゲームだ。町は試合を前にお祭り騒ぎが続く。
(続く)