ディ・ステファノの50年代、キングペレの60年代。個がフットボールをリードした時代は、ヨハン・クライフがもたらしたトータルフットボールによって終焉を迎えた。個の力が王者であった60年代と戦術の時代となった70年代は、直線的に繋がっていない。
ペレの時代が牧歌的、前近代的と思わせる程、トータルフットボールは、フットボールを近代化したが、その強い副作用は、個の力を全体構造の一部にしていった。
70年代以降、個の力は、大物も小物も混ぜこぜになった群雄割拠の時代が続く。ペレの様に長期に渡り世界の頂点に君臨したプレーヤーは存在しない。ベッケンバウアー、ジーコ、プラティニ、マラドーナ、ファンバステン、バッジョ、ジダン、ロナウド、ロナウジーニョと言った選手達は、その時代の先頭を駆け抜けたが、絶対王者と言うには物足りない。唯一、マラドーナだけが、ワールドカップを1人舞台にしたことでペレと並び称される事がある。だが、マラドーナの時代も一瞬だったことは否定出来ない。
70年代以降、フットボールにおける時の流れは、時速から音速に変わり、プレーヤーがトップを維持する時間を大幅に短縮してしまった。映像の発達、デジタル化、緻密化といった技術革新によって発達した複写能力は、個の独自性を奪って行った。個性を奪われた個は、小粒化が進んで組織のパーツとして機能するのが評価基準になってしまった。
21世紀に入ってから、戦術はポジションフットボールの完成によって1つの到達点を迎えた。トータルフットボールの登場から40年の年月を経て戦術は最終形となった。だが、戦術の完成がもたらしたのは、対応戦術の完成だった。美しい型の戦術が規則性を持って動くため、対応戦術は、簡単に完成していた。ところが、戦術が最終形となって生まれたものがあった。新しい時代の個だ。
ピークを迎え、陰りが見えて来たポゼッションフットボールは、その中に怪物の卵を抱いていた。リオネル・メッシと言うフットボール史上最高の個だ。メッシの絶対性は、比較する対象が存在しないものだった。20年後、いや10年後くらいだろうか、歴史が証明するだろう。
「ずっと、メッシの時代が続いていた」と