ハイベリーでの3失点は、スタンドのグーナーを鎮まらせるには十分すぎた。アーセナルを応援する声は聞こえない。数少ないユベントスサポーターは湧きかえり、ユーベコールが繰り返されている。
アウェーゴールを3点も献上しては負けゲームとなるのが普通のこと。しかも、アーセナルの戦っている相手は、世界最高の守備力を誇るユベントスだ。アーセナルがポゼッションというボール支配で攻撃を組み立てる戦術は、確かにゲーム支配という視点で見れば有効かもしれない。だが、どんなにボール支配率をあげても、勝利を約束されたわけではない。ユベントスのプレスが機能し始めるとアーセナルのポゼッションは持たされて、狙われるだけのボール回しに変わっていた。それ程ユベントスのプレッシングがアーセナルのボール回しを上回っていた。
ニューライジングサンは、ハイベリーと同じように声を失っていた。アウェーサポーターがいないスタンドはハイベリーよりも静かだった。ニューライジングサンには、ユベントスのプレスがヤングアーセナルを不自由にしていることとヤングアーセナルがプレッシャーの中で安全に行こうとしすぎて逃げていることは同じに見えていた。
「明也に回せ、明也が仕掛けろ」「弱気な守りに入るなアーセナル」ニューライジングサンにそんな声が聞こえてきた。そして何処からともなく歌が始まった。
「ユーネバーウォークアローン」
ハイベリーでは絶対に聞く事が出来ないレッズ、リバプールの応援歌がニューライジングサンにこだました。歌はドンドン大きくなり、真夜中、眠っていた九里ケ浜を覚ますほどに広がった。だが、どんなに大きな歌も九里ケ浜からロンドンに届くはずはない。それでも、ニューライジングサンは、静まりかえったままのハイベリーに魂を届けと祈るように歌っている。
ハイベリーのゲームは後半30分を過ぎていた。いよいよアーセナルの敗退が濃厚となってきた。
ユベントスが選手交代を行った時、ニューライジングサンの大型ビジョンに矢野明也が映し出された。表情は疲れて見えるが、それもやむを得ない。既に矢野明也は15㎞以上走っていた。だが目の輝きを失っていない。昔レイソロスを逆転で破った時と同じ目をしている。そして、次の瞬間に大型ビジョンの矢野明也がとったポーズは、ニューライジングサンのスタンドにいた九里ケ浜のサポーターにとって忘れられないものだった。矢野明也は、指で数字の9を作り、胸を叩いてからその手を東の空に向かって突き上げた。それは、その昔、矢野明也の曽祖父矢野晃が始めたと言われる「九里ケ浜魂はここに」だった。
聞こえるはずもないニューライジングサンの応援が明也に届いていた。そうとしか思えない動作が大型ビジョンに映っていた。明也は九里ケ浜を忘れて無かった。
ほんの数秒の出来事にニューライジングサンは歓喜した。負けているのに歓喜していた。ゲームは追加時間を足しても残り20分を切っている。ニューライジングサンは明也コールが沸き起こった。そして明也が起こすであろう奇蹟の瞬間を期待した。
そこからの矢野明也のプレーは神がかりとしか思えないものだった。
何かかが乗り移ったような矢野明也のドリブルは、プレッシングと強固な守備が売りのユベントスを無力にしていた。超音速のステルス戦闘機がセスナ機をひとつひとつ撃ち墜としていく。明也の視野に入ったユベントスデフェンスは止まって見えるだろう。ハイベリーのスタンドもニューライジングサンの大型ビジョンを見つめる九里ケ浜の人も矢野明也だけが動く映像だけが見えていたはずだ。ユベントスのレジェンド、ジャンカルロ・リバラの目に映ったのは破壊されていくユベントスの守備だった。
矢野明也が決めたハットトリックの同点ゴールは後半40分。この時点ではまだ、ユベントスが勝ち抜ける状況だったが、その直後に矢野明也が逆転ゴールをアシストするとユベントスとアーセナルの立場は逆転する。ユベントスは、最後の意地を見せ攻撃に転じたが、ケヴィンのカットによって生まれたカウンター返しによって明也のゲーム4点目が記録されるとユベントスは戦う意欲を失っていた。ハイベリーの奇蹟と言われる歴史に残る大逆転劇だった。ハイベリーのスタンドは歓喜している。遠く東の彼方にある九里ケ浜は、矢野明也の起こした奇蹟に酔いしれ、ニューライジングサンが揺れるほどのお祭り騒ぎだった。
リバラが天を見上げていた。「私の時代は終わった」「矢野明也の時代が始まるようだ。でも、明也、1番になることよりも1番で居続けることの方が難しいのだよ」
ゲームの翌日ジャンカルロ・リバラは、引退を表明した。
明也の部屋にLIVARA10のユニフォームが2枚並んでいた。ビアンコネロとネロのユニフォームには、76-77チャンピオンズリーグの刺繍があった。リバラが着た最後のチャンピオンズリーグ用のユニフォームは、ユベントスのミュージアムに並べられるものだが、リバラの希望によって矢野明也と交換されていた。
現代フットボーラーが憧れたジャンカルロ・リバラの引退が、現実のものとなった。矢野明也との直接対決の結果は、リバラの引退を早めたかもしれない。いや、リバラはずっと引退するきっかけを探してきた。
マドリーとの戦い、ロランドやフランチェスタとの戦いは、引退を決意させるきっかけにはならなかった。史上例のないマネーパワーによって作られたレアル・マドリーとの戦いは、所詮、技術的には同次元の戦いにすぎなかった。
ヤングアーセナル、特に矢野明也との戦いは、異次元の選手との戦いだった。自分があと10年遅く生まれていたらこんな思いにならなかっただろう。天が矢野明也に味方したと思ったファーストレグ、勝利を掴んだと思ったセカンドレグ。どちらも偶然や奇蹟ではなく、必然だった。矢野明也は自分の時代、自分達アーセナルの時代の扉を開けただけだ。この史上稀な天才に抗うのは、自分の世代ではない。リバラはそれを悟った。ユベントスにも若いクラックがいる。自分のデビュー後間も無くリオン・ファントマが引退した。リバラがファントマに引導を渡したと言われた事が思い出される。自分が憧れたリオン・ファントマの引退は、何処か寂しかった。でもリオン・ファントマの再来と呼ばれる矢野明也との戦いはリバラに引退を決意させるきっかけになった。
いつの世も世界最高と言われるフットボーラーは、歴史上の偉大な選手達と比べられる。同時代の選手達との比較対象がなくなった時、歴史上の天才達と比べるしかなくなるからだ。矢野明也は16歳にしてその時を迎えたようだ。
アーセナルとのゲームはユベントスのベストゲームの一つだった。これ以上の内容はマドリーとの激戦の中でも見当たらない。チャンピオンズリーグを連覇したゲームでもない。運に恵まれなかっただけだと言う人もいる。だが、違う。ゲームをしたリバラ本人が一番わかっていた。リバラが出場したユベントスのゲームでも今回のアーセナル戦はベストと言えるゲームが負けになった。見えない力が働いていた。アーセナルを勝たせるように。
「ジャン、ご苦労様でした。シューズを脱ぐ時が来たよ」リバラを動かしたのはそんな天の声だったかもしれない。カルチョの王様の引退はフットボールの一時代の終わりとして歴史に刻まれた。
アーセナルはチャンピオンズリーグラウンド8、クォーターファイナルに進出した。ヴィオラ時代以来の事だった。対戦相手は、アヤックス・アムステルダム。現代フットボールの原点であり、アヤックスシステムという比類なき選手育成の原型、そしてクライフ主義は、全てアヤックスのものだ。
アヤックスはラウンド16でロンドンの青い方のチーム、チェルシーをアグリゲートスコア8-6で撃破して上がってきた。アヤックスのラウンド8進出は、ファイナルに進出した95年以来、82年ぶりだった。
ラウンド16はクライフ主義を忠実に体現したゲームだった。2戦ともスコアは4-3。フットボールは相手よりも1点多く得点をあげればいい。3点取られたら4点取ればいい。アヤックスはホーム、ヨハン・クライフ・アレナでもアウェー、スタンフォードブリッジでも同じ内容のゲームをやってのけた。
フットボールの起源以来繰り返されて来たポゼッションとカウンターは、競うように進化を遂げて現代型になった。アヤックスのポゼッションスタイルは3-1-3-3と4-3-3、3-4-3が機能的に変化するクラシカルなスタイルを守っている。スタイルは古いが100年変わらない機能美がある。チェルシーは、4-4-2をベースにした4-2-3-1と4-4-1-1が攻守の切替によって瞬時に変化する。リアリズムに基づいたカウンタースタイルだ。共にプレッシングに現代風の仕掛けを入れている。21世紀になって忘れられるくらい低迷して来たアヤックスがその長い眠りから遂に目覚めたようだ。
アヤックスはヨーロッパの育成センターとして優秀な選手を輩出して来た。20歳までにほとんどの選手が他のクラブに移籍してしまう。トップチームに残るのは10代の選手ばかりだ。それが半世紀以上続いて来た。今年のチーム編成も10代のトップに昇格したばかりの選手しかいない。そのチームがチャンピオンズリーグを勝ち抜いてラウンド8に進出した。ヤングアヤックスと言う呼称はアヤックスが原点であって、アーセナルではない。そんなアヤックスが復活したのは、戦術やスタイル、選手個々のレベルアップなどと、理由はいくつかある。
しかし、最大の理由は、背番号14番をつけた16歳の少年の登場によってだ。アヤックスNo.14アヤックスの永久欠番であり、60年前に神となったヨハン・クライフがつけていた背番号。没後60年を経て、クライフの子孫の了解をとり、欠番の使用が許された。16歳の少年、矢野明也と同じ年に生まれた少年。ヨハン・クライフの再来と言われ始めたその少年は、ロリス・フェルカンプ。
ロリス・フェルカンプの登場によってアヤックスは並のチームではなくなった。一流のチーム、いや、超のつく一流チームに変貌していた。
矢野明也にとっては、また現れた同世代の天才プレーヤーだった。アンヘル・ジアブロに続いて明らかになったオランダの天才プレーヤーとチャンピオンズリーグの舞台で戦うことになる。チャンピオンズリーグは、レアル・マドリーやバイエルン、マンチェスターシティ、PSGといったビッグクラブのゲームではなく、アーセナル対アヤックスが最大の注目カードとなった。
新時代のインヴィンシブルズ、ヤングアーセナル対新時代のトータルフットボール、ヤングアヤックスはヨーロッパのみならず世界が注目するビッグマッチは2週間後にヨハン・クライフ・スタジアムでファーストレグが行われる。
そんなビッグマッチを控えたアーセナルは、週末にもう一つのビッグゲームを控えていた。シアターオブドリームス、オールドトラフォードでのアンマンチェスターUとのリーグ戦だ。アンヘル・ジアブロによって蘇ったマンチェスターUは、降格圏から一気に駆け上がり、ユーロリーグ圏内の6位まで上がってきた。チャンピオンズリーグ出場権も射程圏内に捉えている。アーセナルとチェルシーの結果次第ではプレミアタイトルさえも狙える位置だ。
ユベントスとの激戦を終えたばかりのアーセナルは、コンディション面でのハンデを抱えているだろう。直接対決の結果によっては、首位を行くアーセナルは、追いかけてくるマンチェスターUの息遣いが聞こえるようになる。
オールドトラフォードは恐怖を覚える程の雰囲気になるはずだ。
アーセナルはそんなビッグゲームを中3日で迎える。ユベントス戦の翌々日、アーセナルのメンバーはマンチェスターに向かった。イングランドのメディアは、アーセナル対マンチェスターユナイテッドを矢野明也対アンヘル・ジアブロに置き換えて報道し、戦いを二人の戦いのように煽り立てた。
ウンザリする矢野明也の姿が思い浮かぶ。今度は絶対に負けないと牙をむくアンヘル・ジアブロの姿も想像に難くない。イングランド中が注目するプレミアリーグの一戦は、リーグ戦全38節の中の一つのゲームに過ぎないが、一つのゲーム以上の意味があった。少なくとも外野はそう思っている。
アーセナルは、厳しい環境のゲームがシーズン終了まで続くだろう。
しかし、これだけ注目されるアーセナル、そして矢野明也は、まだ何も手にしていない。ここからが真のタイトルレースと言える。
(続く)