ニューライジングサンに映し出された矢野明也は、5年前と少しも変わってなかった。髪の毛は栗毛色、身長は1m75cm以上になっていた。ちっちゃな明也が大人になっている。でもプレーは、小学生がニューライジングサンで他チームの中学生をキリキリ舞いさせた頃と少しも変わらない。大型ビジョンの矢野明也は少しはにかんだ様なガッツポーズを見せた。それも少しも変わっていない。九里ケ浜にいた頃のままだ。その矢野明也がヨーロッパ最高峰のタイトルを争う、チャンピオンズリーグの決勝トーナメントのステージに立っていた。
世界最高のステージで、しかもユベントス相手に開始早々先制点を決めた矢野明也が見せたのは、九里ケ浜の人達が懐かしいと思うプレーだった。
「レイソロス相手にやってた事をユベントスが相手になっても同じ様にやってるだけだよ」「明也はどこも変わってない。明也は相手が誰であろうと同じなんだ」「相手を驚かせ、スタンドを驚かせ、チームメイトも驚かせる」「明也は自分がやりたいことをチームメイトにもやらせてしまう力も持っている」「だから、明也が入ったチームは負けない」
ニューライジングサンのスタンドでかわされる言葉は、5年前と同じ矢野明也を褒めたたえていた。ニューライジングサンのパブリックビューイングは矢野明也を懐かしみ、圧勝を信じていた。
ところがハイベリーはそれ程簡単では無かった。今日の相手、ユベントスは並みのチームでは無い。矢野明也が見せたPhantom throughに驚きながらも、怯むことなく、引くこともなく、コンパクトなゾーンを保ってプレスをかけて来た。イタリアのフットボーラーはマンマッチの力ならば、スペインにもブラジルにも当然ドイツにも負けることはない。ボール技術、体幹やスタミナと言った個の能力はいい加減に見える姿勢に隠れがちなだけだ。特にジャンカルロ・リバラとプレーしているユベントス選手の力はレアル・マドリーをも凌ぐものがある。そんなチームが真剣にゲームに入っている。アーセナルは開始早々の得点から、安心を手にした事が、いつの間にか守りの意識が心を覆ったようだ。いつかボールを持たされるだけになって、ゲームを支配しているのはユベントスの方だと見える状況に陥った。明也は受ける角度を限定されたパスばかりになり効果的なプレーが出来ない。
4-1-4-1に構えたユベントスは中盤の底にいる1が明也の刺客になっていた。9人がプレスしてアーセナルに決定機を作らせない。粘り会い、我慢比べと言うような潰しのフットボールが始まっていた。
だが、このまま終わればアーセナルは勝ち抜けとなる。2失点以上しなければいい。膠着したゲームは、先行した方に先に我慢の限界が訪れるもの。少しのミスが連鎖して状況が一変する。アーセナルのパス交換は続いている。だが、ボールキープそのものを目的にしたパス交換になってきたことをユベントスは見逃さなかった。アーセナルが気付かない自分達のズレにユベントスが反応してボール奪取からカウンターとなった。
前線で静かに息を潜めていたリバラにパスが渡るとそこから時間は必要なかった。リバラはアーセナルにプレスのチャンスを与えることなく、ボールがゴールラインを越えるまで動きが止まることはなかった。
1-1
ゲームは振り出しに戻る。合計スコア3-3このままタイムアップならば、アウェーゴールによってアーセナルがラウンド8に進出できる。だが、追う立場のユベントスに勢いが傾くことになっていく。
アーセナルはまだ若いチームである。当然勢いに乗ったら手がつけられない。だが、ユベントスは百戦錬磨のチームだ。ユベントスの超の付く経験力がアーセナルの若い勢いを空回りさせる流れになった。
ボールを持たされ続けるのに前に進めないアーセナル。アーセナルにボールを持たせゲームをコントロールするユベントス。ユベントスのコンパクトゾーンの中で10対10を仕掛けるような戦術にアーセナルは打開策を見つけられない。
矢野明也に渡るボールは必ず刺客が狙っている。生きたパスが矢野明也に届かない。明也の走行距離は前半終了近くまでに8kmを超え、動きの質が落ちかけている。前半アディショナルタイムに入った時、明也にパスが向かった。終了間際で両チームの集中力が落ちた時間帯。明也に向かったのはきれいな縦パスだった。明也のイメージは、シュートまで出来ていた。明也は「ファーストタッチで刺客をかわせる。いや、かわす」そんな思いが見えていた。刺客の動きを注意していた明也の死角からリバラが現れボールをつつかれてしまう。明也のプレーがリバラに読まれていた。
アーセナルは、まさかのボールロストにユベントスのカウンターに対応が遅れてしまう。ボールを奪ったユベントスは、縦に走ったリバラにピンポイントのパスを送る。アーセナル守備陣の間を抜けた長距離パスは、美しい放物線を描き、リバラに届いた。リバラの芸術ともいえるファーストタッチは、アーセナルの選手達をプレーウォッチャーに変え、誰もリバラに付くことが出来なかった。
明也もリバラのファーストタッチの美しさに見入ってしまう。リバラは、ボールをピッチに落とすことなく、ツータッチ目はバイアスのドライブをかけたシュートを放つ。ボールは前に出て来たルーマンの頭上を越えてゴールに収まった。
1-2
ユベントスがゲームをひっくり返し、この時点でラウンド8への切符はユベントスに動いた。
このまま前半終了の笛が響き、ハーフタイムになった。
ハイベリーは動揺していた。ヤングアーセナルは一瞬で追い詰められてしまった。明也のボールロストが失点に繋がり、チームの動揺以上に明也は追い詰められてしまった。
ニューライジングサンは、静まり返っていた。矢野明也のプレーを懐かしく思い楽しいと思ったのも束の間、矢野明也のボールロストから失点に繋がるという、これまで見たこともない瞬間を目の当たりにしてハイベリー以上の沈黙に包まれた。
「明也、アキヤ、あきや、アキヤ、明也」ニューライジングサンから明也コールが聞こえて来た。大型ビジョンに映し出された落ち込んだ明也の姿は、ニューライジングサンに見えない力を与えた。まだ後半がある。ニューライジングサンの気持ちの切り替えはハイベリーより早かった。ハイベリーは、静かだった。選手がピッチに戻り始めても不安に包まれ、声援は力が無かった。
後半が始まる。明也の動きは、少し重そうだ。心の動揺がまだ収まっていない。そんな明也を狙うようにユベントスは罠をかけてくる。ケヴィンはそんなユベントスに気づいて明也を通さないでゲームを作ろうとしている。だが、それも直ぐに見抜かれてしまう。明也を囮にしたパスをユベントスは読み通りとばかりにカットして、またもカウンターを仕掛ける。リバラが動いている。アーセナルはリバラの動きをケアしすぎてボールホルダーへのプレスが甘くなってしまう。そのまま持ち込まれ、ミドルシュートを見舞われる。
ユベントスに3点目が入った。
ハイベリーは、沈黙が悲鳴に変わった。アーセナルが勝ち抜けるためには3点が必要となった。
(続く)